漢文の素養(光文社、加藤 徹、2006/02)がなかなか面白い。
かつて漢文は、東洋のエスペラントであった。
漢文で筆談すれば、日本人も、中国人も、朝鮮人も、ベトナム人も、意思疎通することができた。また漢文は、語彙や文法が安定しているため、千年単位の歳月の変動にも、あまり影響されない。
日本や中国の生徒は、学校の授業で、『詩経』の三千年前の漢詩や、『論語』の二千五百年前の孔子の言葉を読まされる。これは東洋人にとってはあたりまえのことだ。しかし世界的に見ると、そもそも「古文」がない国のほうが多いのである。
例えば、イギリスやアメリカの学校の授業に「古文」はない。アルファベットでしか書けぬ西洋語は、文字が発音の変化を忠実に反映しすぎて、綴りが百年単位で変動してしまうため、千年もたつと「外国語」になってしまうのだ。英語の最古の叙事詩『ベーオウルフ』は、八世紀の作品であるが、一般の英米人はこれを音読することさえできない。(p.11-12)いまの日本の教育システムでは、英語はコミュニケーションの道具として教えられるが、漢文はそうではない。そのため、若者にとって、漢文はつまらない科目である。
しかし本当のところは、漢文は、千年前の古人や、千年後の子孫と「対話」するためのコミュニケーションの道具になりうる。また、ホームページや電子メールの普及により、新しいかたちでの筆談文化が復活したことで、漢文の「東洋のエスペラント」としての側面にも、新たな可能性が出てきている。(p.231)
この「漢文で筆談」を筆者も体験しました。ただ筆者の場合「漢文」ではなく「漢字」ででしたが^^;。台湾の北端の、日本人観光客は誰も行かない街に、家族と友達で行ったときです。レストランに入って注文しようとしても、日本語も英語も通じません。そこで始めたのが漢字による筆談です。メニューは漢字ですからなんとなく中身はわかりますが、お酒や飲み物が載ってません。そこで紙に漢字と絵を描きながら注文しました。実際に出されたものをとっかえひっかえしてやっと乾杯できました。
しかし、この“千年前の古人や、千年後の子孫と「対話」”と言う視点は新鮮です。特に「千年後の子孫との対話」が、果たしてどのように行われるのか、いままで考えたこともありません。ほんの十数年前のフロッピーでさえ、いまでは読むことすらできないのに、これが一千年単位となるとどうなるのでしょうか。
情報がデジタル化された結果、コード変換と言う水平軸だけでなく、時間と言う垂直軸のコードの互換性が問題となります。つまりこれは、時間軸上の互換性を維持するためには、デジタル情報だけでは足りなくて、それがどう言ったコード表を使用しているのかバージョン情報も含めて必要になることを意味しています。しかしこれは大変なことです。
1989年から2010年まではこのコードはこう言う漢字に対応していたなんてことを、それぞれの文字毎に一千年間管理しきれるものでしょうか。デジタル情報自体は何年でも次々新しいメディアにコピーすればそれでおしまいですが、時代が輻輳しはじめるとそれぞれを峻別できるものなんでしょうか。なんだか理解の範囲を超える問題であるような気がします。
とは言え、未来の技術者がなんとか解決していってくれるであろうことを、楽観的に期待することにして^^;、問題は漢文です。
「世界人口の四分の一を占める漢字文化圏」(p.17)と言う文化は貴重です。各国いろいろ政治的思惑があるにせよ、この漢字文化を「千年時空間のコミュニケーション」に利用しない手はありません。じゃあそれは具体的にどうやるのでしょうか?(続く) KAI