京都府警の幹部を務めていた、筆者の生まれてからの幼友達が亡くなった。さきほど、先日喜寿を迎えたばかりの母から知らされた。近所の保育園、小学校、中学校、高校、すべて同じで、まさかこの歳で亡くなるとは。なぜか、この文章を書いている目の前に彼の笑顔が、入れ替わり立ち代り、あらわれる。
しかし、人の運命とははかない。十代から何人かの友達を鬼籍におくってきたけれど、そのいずれも、心に消えない傷を残してきた。人の死にどのような意味があるのか問うことは無意味であるけれど、ただその存在に見合う、残された者の心のバランスを、いかにすれば、とることができるのか。心の傷は、そのバランスの証でしかない。つらい記憶の証です。
考えてみれば、父親も、祖母も、こうして別れを迎えてきた。人に、別れの順序など、ないのかもしれない。ひょっとして、柱に残る家族の成長の印しのように、いくつもの、柱の傷を刻んでいくことが、人の一生と言うものかもしれません。合掌。 KAI