小池報道もそうでありましたが、このところのメディアの外し具合が、芳しいのであります。
もちろん今回は、米大統領選挙でありますので、アメリカのメディアの問題であり、小池報道における日本のメディアの問題と、今回の米国におけるそれとは、問題の本質が異なるのであります。
これがすなわち、メディアにおけるジャーナリズムとしての役割の問題に行き着くのでありますが、これを論じる前に、まずは大統領選の事前予想であります。
と言うことで、こちらが、KAIの、本番2週間前の予想であります。
と言うことで、今回のKAIの予想はと言いますと、51対49でトランプ勝利なのでありますが、その訳は最後にご説明するといたしまして、まずはクリントン圧勝予測であります。そして、こちらがそのブログのエントリーであります。
http://www.open.jp/blog/2016/10/post-1474.html …
さて(暇なので)米国大統領選の予想でもしますか
(Twitter、KAI@kai_report、19:16 - 2016年10月27日)
そして、実際の結果はと言いますと、
クリントン 228(59,814,018票) トランプ 279(59,611,678票)見事、トランプ当選の的中であります。ドナルド・トランプ候補が大統領選に勝利
未獲得の選挙人票数: 31
270 票で当選開票率: 99%
(2016/11/10 18:44 JST 更新、2016年米大統領選挙結果)
大方のメディアの、クリントン圧勝の予測の中にあって、先日の都知事選に続いての的中なのであります。
選挙人獲得比率の51対49につきましては、開票率100%でおそらく56対44くらいまで開くでありましょうが、先のエントリーでKAIが予想しましたとおり、接戦を制したフロリダの選挙人29人が、勝敗を決したのは間違いないのであります。
さて、ことごとくの予想を外したメディアの言い訳でありますところの、トランプの「驚くべき逆転勝利」なのでありますが、「驚くべき」はみなさんでもなんでもなくただ単にメディアの中のみなさまであったのであります。
すなわち、メディアのみなさんが見ていたのは、ただ単にトランプが「好きか嫌いか」だけであったのであります。
これは別にKAIが想像で申しあげているのではなく、米国メディアの出口調査における質問事項であった、日本のメディアでは考えられない驚愕的事実なのであります。
前回のエントリーでも触れましたとおり、事前調査における2人の支持率とは、この好きか嫌いか、ただ単なる人気投票となっていたのであります。
ご承知の通り、人は、好きか嫌いかと投票するかしないかは、本質的に異なるものなのであります。
これをあえて、簡単に申しあげますなら、クリントンが嫌いとトランプが嫌いの差であったと言うことなのであります。
つまり、多少の差で、クリントンが嫌いが、トランプが嫌いを上回った結果であったのであります。
米国の大統領選は、日本の衆議院選における小選挙区制度と同じであります。どちらが選挙区で多数を取るか、多数の総取りなのであります。
でありますから、得票数に差がなくても獲得選挙人数に差が出ることは、よくあることなのであります。
さて、一連のこれらの問題が冒頭に申しあげました、「メディアにおけるジャーナリズムとしての役割の問題」といかなる関係があるのか、であります。
そうです、好き嫌いとはジャーナリズムではなく、メディアが単なるゴシップメディアに堕してしまった、明確なる証拠なのであります。
もちろん日本では、昔から、メディアとはゴシップメディアであり続けてきたのでありますが、非常に興味深いことに、米国メディアにおいても、トランプと言う大統領候補の出現によって、メディアがジャーナリズムから、ものの見事にゴシップ化したと言うわけなのであります。
さらに、この米国メディアのゴシップ化につきましては、更なる考察があるのでありますが、今回はこれは次回以降のテーマとさせていただくのでありまして、標題の「トランプは、リンカーンに並ぶのか?」についてであります。
なぜ突然、唐突にも「リンカーン」であるのか?
そのヒントを教えてくれたのが、こちらのツイート。
「下品な演説で成り上がった粗野なアホ」「外見も知性もサル並みだ」「第一、政治経験にもとぼしい」「副大統領や閣僚が操る人形としてしか機能しない政権になろう」――。かつて、そう言われて大統領になった男がいた。エイブラハム・リンカーンっていうね。このツイートのソースになるものはないかと思って探してみましたが、直接の記述は見つからなかったのでありますが、それらしい記述がこちらであります。
(Twitter、OGAWA Kandai@grossherzigkeit、11月9日)
1860年2月27日、ニューヨークの党指導者がリンカーンを招待して、強力な党員達の前でクーパー・ユニオン演説(英語版)を行わせた。リンカーンは、建国の父たちがダグラスの主張するような「国民主権」という考え方をほとんど用いず、奴隷制を制限することを繰り返し求めたと論じた。共和党の道徳の基礎に従えば奴隷制に反対することを求めており、「正しいことと間違ったことの間の中間を模索すること」、すなわち部分的に奴隷制を容認することを拒否すると主張した[132]。リンカーンの洗練されていない外貌にもかかわらず(聴衆の多くは彼が不恰好で醜いとすら考えた[133][134])、リンカーンは自身を党の前線に立たせる知的指導者であることを示し、共和党の大統領候補である印象を与えた。ジャーナリストのノア・ブルックスは「ニューヨークの聴衆に対して彼ほど初登場の印象を与えた者はいなかった」と記していた[135][136]。KAIは、Wikiのこの記述を読みまして、さきほどのツイートに膝を打って納得したのであります。
(Wikipedia、エイブラハム・リンカーン)
すなわち、リンカーンの時代の奴隷制度とは、いまの移民問題なのであります。すなわち不法移民問題であり、難民問題であり、これらの人々との間の格差問題なのであります。
オバマもクリントンも、この問題に目を瞑ってきたのであります。
これに衝撃的に反旗を翻したのが、トランプであったのであります。
実はいま、トランプ当選に抗議して全米でデモをくりひろげている人たちが気付いていないのは、この人たちこそが、この不法移民を容認して、難民問題や格差問題の抜本解決に背を向ける者たちであるってことなのであります。
恐らく今後、トランプは、リンカーンのように南北戦争に突入、その後暗殺ってことには、まさかならないとは思うのでありますが、メディアが喧伝する意味とはまったくもって異なる意味で、米国世論を大きく二分した状況に直面するのは、まず間違いないのであります。
それは、奴隷制度廃止と同じように、まったく異なる人権意識と言う価値観の対立であり、見かけ上のドンパチはないものの、激しくこの価値観の対立の時代に、米国社会は直面していくのであります。
と言うことで、一方の日本社会でありますが、あいもかわらずのゴシップジャーナリズムしか脳がないメディアに扇動された方々のおかげで、カエルの楽園がごとく、煮えたぎるお湯の中で茹であがるカエルを待つばかりとなるか、はたまた、トランプがごとく争点を明確にして、これと戦うリーダーの登場を待つのか(もちろん橋下徹ですが)、時代は大きく動き始めたのであります。 KAI
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