新年初めての、まことにもって遅くなりましたが久々のエントリーであります。
年明けから、イスラム過激派がらみの不穏な事件が続いているのであります。
そして、これら一連の事件に対して行われる言論空間を目撃するにつけ、つくづく、わたしたち日本人が、その言論の根拠、すなわち思考のフレームワークたる基本的哲学の不在に、眩暈がするほど不安をおぼえるのであります。
なぜこれほど私たちは、マスメディアを含めた言論人が、眩暈がするほどまでにめちゃくちゃな論理をふりかざすことができるのか、KAIにとってまことにもって許容しがたいものがあるのであります。
新年にあたって、これからこの1年これら不良言説といやがおうでもお付き合いする上で、彼らのその思考の中にあると思われる、普遍的構造を、今回はこれを解明することによって、精神的安定をはかることを目的に、これからみなさまにこの答えたるメカニズムをご説明したいと思うのであります。
そこでまず彼らの言説たるものを垣間見ることにするのでありますが、これは、かの「イスラム国」を「敵」にするなとの言説であります。
イスラム国が指弾したのも援助だった。人道支援だと政府は言っても、カネに色はついていない。イスラム国と戦う国に2億ドル出す、といえば軍事支援と同じに見られるだろう。この言説が、論理的思考能力をお持ちのみなさまがたにとって、いかに論理的に破綻しているか、すぐさまお気づきいただけるのであります。日本政府はイスラム国を攻撃する有志連合には加わっていない。日本の国民もイスラム国を困りものと思ってはいても「敵」とは見ていない。そこはアメリカと違う。
だがイスラム国は日本を「敵」とみなし始めている。すくなくとも「敵の仲間」と見ている。それは違う、誤解だ、と日本はいえるだろうか。
(イスラム国を「敵」とするのか 分水嶺に立つ日本外交、山田厚史)
それは、今回の人質事件について、「イスラム国」を国家と同定して、国家対国家の敵味方の次元で論じると言う、まったくもって論理的不全を起こしていると言うことなのであります。
あくまで、「イスラム国」とは、その規模のいかんを問わず、テロリストであり、暴力的犯罪者集団であって、この集団がわたしたち日本を彼らの「敵」あるいは「敵の仲間」とみなすことと、普通に言われる「国家」が日本を「敵」とすることとの間には、天と地ほどの開きがあるのであります。
この論理的に破綻している言説を起点にしているため、山田厚史氏は<日本の平和外交は、いま分水嶺にある。国際紛争を武力で解決する国になるのか。敵を作り戦いに参加するか>などとまで言ってのけるのであります。
イスラム国との戦いは、犯罪者集団との戦いであって、「外交」でもなんでもない。
なんでこんな基本的なことが理解できないのでありましょうか。
まさに、ここにこそ今回の問題の本質があるのであります。
すなわち、この筆者を始めとした、メディアに登場することごとくの言論人の多くには、言論活動と言う「思考」を行ううえで必須の前提となる、基本的概念体系の知識が欠けているのであります。
基本的概念体系とは、いわゆる一流大学入試や国家公務員試験を突破するための知識体系とは、本質的に異なるものなのであります。
これはどう言うことか、さきほど問題にした「外交」を例に、これをご説明したいと思うのであります。
外交とは、国家対国家の交渉である。
もちろん入試レベルの知識体系でも、同じ答えであるように見えるのであります。
ところがどっこい、基本的概念体系においては、この意味がまるで異なるのであります。
どう異なるかと言えば、
外交とは、(正統的)国家対(正統的)国家の(正統的)交渉である。
と、かようなものになるのであります。
なんだ、(正統的)が付いただけじゃないか、と言わないでいただきたいのであります。
この(正統的)が付くことにより、概念が一挙に時間軸上の定義を要求されることになるのであります。
これがどういうことか、ご理解いただくために、このレポートの過去のエントリーをここにご紹介するのであります。
「正統性」思想では善悪正邪良非を論じません。他者との相対的価値は問題じゃないんです。競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。昨日の自分よりどれくらい感覚が敏感になったか、どれくらい思考が冴えたか、どれくらい判断力が的確になったか、そういうところを自己点検することが思索瞑想の目的であって、同門の誰より道徳的とか、倫理的とかいうことには何の意味もないのです。KAIのおなじみのテーマであります、正統性思想であります。
(「正統性」思想とは−−正義と正統性)
つまり、基本的概念体系である正統性思想からすれば、国家とは正統的であり、交渉とは正統的であることが、基礎的必須要件となるのであります。
これが、多くの言論人からすれば、(あらゆる)国家と(あらゆる)国家の(利害)交渉である、との認識になっている、と先ほどから申しあげているのであります。
もちろん、ここで、外交とは、(利害)交渉ではなく、(正統性)交渉であると言うことが、一連のイスラム国問題解決に向けた、対イスラム国とではない、対外国国家との交渉において、きわめて重要な意味を持ってくることは、あらためて申しあげるまでもないのであります。
さて、ここで、あらためて、(正統的)国家とは、(正統的)交渉とは、いったいどのようなものであるのか、みなさまにご説明したいとおもうのでありますが、まずは(正統的)国家であります。
いかなる国家にも、その歴史があるのであります。
それが革命によって、あるいは、平和的独立によって誕生したとしても、国家は無から誕生することはないのであります。
たとえ否定したとしてもそのルーツとなる「国家」が、その国家にはあるのであります。これを、正統性思想における(正統的)国家と呼ぶのであります。
イスラム国が国家でないのは、端から明らかなのでありますが、正統性思想からも、これは間違いないのであります。
では、(正統的)交渉とはなんであるのか。
ここでもまた、多くの言論人がまったくもって理解できていないのでありますが、外交とは利害の交渉であるとの誤解であります。
利害の交渉とは、すなわち損得勘定であります。
外交が、この損得勘定ではなく、正統的交渉であるとは。
長くなりますので、これを簡単に申しあげますならば、正統的な国家間の関係を、正統的、すなわち歴史的一貫性を持たせるための合意形成に他ならないのであります。
つまり、後世の子孫に対して説明できるかどうか。
外交とは、この一点にあると申しあげても過言ではないのであります。
と言うことで、これらの意味において、この一連の人質問題に対する日本政府の対応の正しさ、多くの言論人の言説の論理的瑕疵がご理解いただけるものと思うのであります。
ただここで、疑問が残るのが、フランスの風刺画出版社襲撃事件における、宗教と風刺画の問題についてであります。
本来、この問題を論ずるつもりでこのエントリーを書き始めたのでありますが、こちらは後編で述べることにするのであります。 KAI
(追記 2/1 8:30)
KAIの考察にそう記事が掲載されましたので、引用させていただきます。
【ワシントン=加納宏幸】イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が、後藤健二さん(47)とヨルダンに収監中のサジダ・リシャウィ死刑囚の交換を通じ、「国家」としての正統性を主張するとみて、米政府が警戒を強めている。イスラム国が公然と身代金や身柄交換を求めるのは初めてで、ヨルダン政府に身柄交換を認めさせることで、国家として承認させる狙いがうかがえるからだ。米政府は昨年5月、アフガニスタンのイスラム原理主義勢力タリバンに拘束されていた米兵ボウ・バーグドール軍曹の解放と引き換えに、タリバン幹部5人をカタールに移送した。
今回の身柄交換との違いを、米政府は「バーグドール氏は捕虜であり、状況が異なる」(サキ米国務省報道官)と強調した。これはイスラム国の「正統性」を認めることになりかねないとの懸念が一つの理由だ。
米国防総省のカービー報道官は1月28日の記者会見で、「敵対部隊の正統性という観点からすると、イスラム国はタリバンと同じ状況や部類には入らない。イスラム国はテロリスト・ネットワークだ」と述べた。
(【イスラム国殺害脅迫】身柄交換交渉は「国家としての正統性」得る狙いか 米政府が警戒(1/2ページ)、2015.1.31 21:36更新)2001年9月の米中枢同時テロを受け、米国はアフガンを支配するタリバンに対する戦争を始めた。戦時の捕虜であるバーグドール氏と、テロ組織によって拘束された後藤さんやヨルダン人空軍パイロットは扱いが異なるというわけだ。
イスラム国は、預言者ムハンマドの後継者を意味する「カリフ」が統治する国家だと宣言している。米戦略安全保障情報会社ソウファン・グループは「正統性を切望し、他者から真のカリフ制国家であり、国民国家と同等であるとみられたいと願っている」と指摘。身柄交換を行おうとするこれまでにない行動からは、「交渉できる国民国家の地位に自らを高める」という意図があると分析している。
米紙ウォールストリート・ジャーナルも、身柄交換をめぐる交渉は「機能する国家としての認知を求めるイスラム国を正統化する危険性がある」と指摘した。
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