実に興味深い論考がありましたので、これをご紹介するのであります。
法律の形式に意味がないとすれば、その本質は何だろうか。シュミットは『政治的なものの概念』で、それは友か敵かという立場だとのべた。人は他人の意見が正しいかどうかを合理的に理解してから立場を決めるのではなく、まず「こいつは敵か味方か」を感覚的に判断してから、自分の立場を正当化する論理を考えるのだ。このシュミットの「友か敵か」でありますが、まさにKAIの言葉で言いますところの「内なるものと外なるもの」そのものの概念であります。朝日新聞の「法制局は法の番人だ」というナンセンスな社説は、その典型である。彼らは、かつて戦争をあおった罪悪感から戦後は絶対平和主義に180度転換し、自分に反対する者を「平和の敵」として糾弾してきた。特に安倍首相は朝日とともに戦犯だった岸信介の孫だから、嫌悪感は強い。彼らは「安倍をたたく」という結論を最初に決めてから論拠を考えているのだ。
(朝日新聞の友と敵)
これをもう少し具体的に申しあげますならば、「内なるもの」に対しては「プラス」に「反応」する「くせ」があると言うことであり、逆に「外なるもの」へは「マイナス」に「反応」する「くせ」があると言うことであります。さっそくアマゾンで「政治的なものの概念」を注文しましたので、届いたら読んでみたいと思うのでありますが、実に興味深い、これは内なるものと外なるもの理論の応用事例であります。でありますから、例えば誰かの「意見」や「主張」が、自分にとって「内なるもの」と識別した瞬間、「賛成」となり、反対に「外なるもの」には「反対」と、ある意味、自動的に決まってしまうことになるのであります。
この視点はきわめて重要なものでありまして、いままでの一般的な考え方からすれば、まず最初に、「賛成」あるいは「反対」があって、その結果が自分にとってこれが自分側と言う意味の「内側」であるのか、あるいは「外側」であるのかを決めると、かように考えられているのであります。すなわち、こうであると。
<賛成>→<内なるもの>
<反対>→<外なるもの>ところが、であります。
実際は、まったく逆の「反応」であったと言うことであります。
<内なるもの>→<賛成>
<外なるもの>→<反対>
(内なるものと外なるもの--その本質とは?)
さらには、<彼らは「安倍をたたく」という結論を最初に決めてから論拠を考えているのだ>と言う部分でありますが、まさにこれこそKAIがずっと言い続けているところであります、日本のメディアの「レトリック思考」の典型と言えるのであります。
同じく朝日新聞による、執拗なる橋下たたきも、しかりであります。
と言うことで、この「構造」がわかれば、彼らに対する反論の方法は明確であります。
なぜか、このシリーズは長続きするのでありますが、「レトリック思考」論者と議論をする場合の注意事項について、ご質問をいただきましたので、ご説明させていただくのであります。少々長い引用とさせていただいたのでありますが、ポイントは、「哲学」であります。■「理由」に反論してはいけない
レトリック思考とは、「結論」と後付け沢山の「理由」から構成されているのでありますが、みなさんがこの「結論」について反論するために、「理由」を取り上げてそれに反論してしまうと、それは彼らにとって思う壺となるのであります。
それは、前回も申しあげたのでありますが、彼らにとってひとつひとつの「理由」は、たんなる「説明」する「理由」であります。
でありますから、そのいくつもある「理由」のうちの、一つや二つの「理由」に反論しても、彼らにとって痛くも痒くもないと言うことであります。
(中略)
■どうしても反論するなら「結論」に反論する
彼らの提示する「理由」には一切ふれずに、「結論」そのものに「反論」する。これがコツであるのであります。
もちろん、このためには、みなさんには、自分の「哲学」を持つことが必要となるのであります。
ここで、「哲学」なんてと、怖気づくことは、まったくもって必要ないのであります。
誰にでも、「人生哲学」は、ある。
これを使えばいいのであります。
(中略)
具体的には、こうであります。
そもそも「憲法」とは、なんであるのか。
これこそが、私たちが持つべき「哲学」なのであります。これが一番最初にあるのであります。
「歴史の神秘に育まれた国家とは祖先の叡智が幾世期も幾十世代も堆積したそのうえに築き上げられた荘重な建造物であり、祖先より相続した『世襲の生命体』である。この故にまた、悠久に国家が永続していくための命と活力のエネルギー源は、祖先を尊崇し祖先が遺した伝統や慣習を畏れをもって保守していく子孫たちの、いわゆる『保守主義の精神』にしかない。これは、このシリーズ最初で取り上げた「哲学」であります。すなわち、われわれ国民が『世襲の義務』である『祖先を畏れる精神』『伝統・慣習を保守する精神』を仮に失うとすれば、国家は生命源を涸渇させていくから、最後には亡国の淵に立つ。
国家とは過去の祖先と未来の子孫と現在の国民とが同一の歴史と伝統とを共有する精神の共同社会であるから、国家が魂を再生して永遠に存続するには過去と未来と現在の国民とがいつもパートナーシップの絆で結ばれていなくてはならない」 (P3)
(正統の憲法 バークの哲学)「国家」とは、その「歴史」であると。
「憲法」も、その「歴史」の中にあるのであります。
(中略)
実は彼らは、そもそもにおいて、「憲法」をなぜ「改正」しないといけないのか、その「哲学」を持ち合わせてはいないからであります。
橋下のような、道州制や統治機構改革といった「哲学」ではなく、あえていえば、個人的な自分の「都合」、「利益」の確保が主たる目的であるからであります。
(なぜ哲学は不在するのか?(4))
各論に引きずり込まれることなく、常に哲学レベルの土俵で戦う、であります。
お考えいただければ、まさに「アベノミクス」の議論が、この好事例の典型であります。
安倍の「経済哲学」の前に、やがては誰も反論できなくなった。
なぜ彼らが反論してもだれも聞く耳を持たなくなってしまったのでありましょうか。
これこそ、レトリック思考論者にとって「哲学」こそ天敵であると言う明々白々なる証明となるのであります。 KAI
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