情報戦とは--孫子の兵法応用編・シーズン2(4)

  • 投稿日:
  • by

橋下徹を盛り下げているのは、他の誰でもない自分自身であることの、まるで自覚がないのが、石原慎太郎と言う人物であります。

 ■石原慎太郎氏橋下徹氏

 維新の石原共同代表は12日、「大阪都構想」実現のため出直し市長選に出馬するもう一人の共同代表、橋下徹大阪市長について「あの人物を失いたくない。しかしプレステージ(威信)が落ちてきた感じがする。それは維新にとってマイナスだ」と述べた。国会内で記者団に語った。

 橋下氏を思う気持ちは変わっていないが、世論の橋下氏への評価が下降気味なのが気になるようだ。石原氏は橋下氏の出直し市長選について「結果は同じだ。(市議会の)分布勢力は変わらない」とその効果に懐疑的な見方を示し、多数決で物事を決める維新の党運営には「そんな政党はありえない。高校の生徒会ではないんだから」と苦言を呈していた。
維新・石原氏、みんな・渡辺氏、連合・古賀氏…気になる政治家にメッセージ

KAIは、今回の大阪市長出直し選問題について、こうご忠告を申しあげてきたのであります。
もちろん、これを維新は、党をあげて、全身全霊でうまくやりぬく必要があるのであります。けっして橋下の慰安婦発言時のごとき対応にならぬよう、もしこれに瑕疵あらば、維新は消滅すると心得るべし。
「正統性」思想とは--大阪市長出直し選と内閣府職員死亡事件
ここで「けっして橋下の慰安婦発言時のごとき対応にならぬよう」と書いていますのは、こちらのお話であります。
「都議選」という「試合」に勝つためには、どうすればよかったのか。

それは、徹底した「橋下徹」擁護発言以外にはないのであります。この理路はまたの機会にご説明させていただくとしまして、この「意味」において、「ミス」を犯したのは、石原慎太郎であり、維新の女性議員であり、維新の都議会議員候補者たち、すべてであります。

石原慎太郎をはじめとして、みなさん、不思議なことに元々の橋下発言をまったく聞かずして、メディアが伝えることを元にしてコメントしているのであります。

そのうえ、まずは「謝るべき」論を展開する。
情報戦とは--孫子の兵法応用編・シーズン2(2)

要するに、先の橋下徹の慰安婦発言に対して、石原慎太郎は思い切り橋下の足を引っ張り、つづいての今回の問題に対しても、これを繰り返してしまうのであります。

これはいったいなぜなのか。

なぜ石原慎太郎は、しつこくこれを繰り返すのか。今回のテーマはこの原因の考察であります。

と、その前に、なぜ石原慎太郎にとって、徹底した「橋下徹」擁護発言が必須であるのか、まずはこちらをご説明するのであります。

これを簡単に申しあげますならば、「ピンチはチャンス」であります。このピンチをチャンスに変えるための唯一の方法こそが、徹底した「橋下徹」擁護発言以外にはない、つまりはこう言うことだったのであります。

さらに言えば、このピンチは、野球で言えばこちらのエラーや失投で招いたピンチなどではまったくない。そうではなく、相手のアンフェアな行為に起因することがあまりにも明らかなのに、石原慎太郎はこれを橋下徹の「失投」であるかのごとく決め付けて、否定的意見を表明するのであります。

ピンチのときにベンチからかけるべき声は、「大丈夫、ナイスピッチング」、「玉は走っている」と言う声援であって、なにやってんだかなんてヤジをとばすなど、ありえないことは誰が考えてもわかること。

これが、なぜか、石原慎太郎はわからない。なぜか石原慎太郎は、橋下徹がエラーをしでかしたと思ってしまう。

実はこの理由は簡単なんであります。

彼は、まったく「事実」を調べない。調べないまま、テレビや新聞に書いてあることを鵜呑みにして、これを前提に発言してしまう。インターネットに疎い、すべての情報源が(偏向した)テレビと新聞だけであると言う、典型的情報過疎世代だったのであります。

慰安婦発言、出直し選記者会見、いずれも直接自分の目と耳で見て聞いて確認しさえするならば、橋下徹の言葉が、まったくもって当たり前すぎて何の問題もないことが一目瞭然がごとくわかることであります。

そもそもの前提が違っているのであります。

さて、冒頭の石原発言には、もうひとつの大きな問題があるのであります。

多数決で物事を決める維新の党運営には「そんな政党はありえない。高校の生徒会ではないんだから」と苦言を呈していた。
この部分でありますが、これもまた、橋下徹の意図するところを、石原慎太郎はまるで理解していない。

橋下が「高校の生徒会」とは真逆のことを考えているにもかかわらず、石原は、故意か故意でないのかしらないけれど、これを曲解して批判するのであります。

橋下徹の考える「多数決」とは、議論を尽くした上で最後は「多数決」で決める、であります。これこそが民主主義の「正統性」を担保する方法であると、彼は信じてやまないのであります。

もちろん、KAIも、これに全面的に同意するものであります。

しかし、石原は、これが理解できない。

党運営とは、党首が責任もって行うもので、多数決は党首選のみで十分であり、個別の案件には必ずしも多数決は必要ないのである。と、かように石原は考えているからであります。

しかしながらであります。この論理が、党首は「白紙委任」されたものではないとの反論に対抗できないことは明らかであります。

さらには、政党とは志をひとつにする者の集まりであると考える石原に対して、橋下は必ずしも志はひとつでなくてもいいと、かように考えている。この考え方の違いが、政党と言う党の意思統一の方法の違いとなっているとも言えるのであります。

どちらが党を大きくすることができるかは、議論するまでもなく明らかなんであります。これを野合であるとの批判を恐れて、面従腹背がごとき意思統一を図ろうとするなどと言うのは、本末転倒以外のなにものでもないのであります。

志はひとつでなくてもいい。

しかし、個別の問題に対して党としての志は、議論を尽くした末の多数決でひとつにする。

こんな明確で、力強い、党運営を、理解できないなんて、石原慎太郎に、はたして未来はあるのでありましょうか。 KAI