経済学者を名乗る者には、経済学をまともな学問にする意志を問う(2)

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このひと、まだこんなことをいっているのであります。

何の不思議もない。

世界経済の裁定取引が、やっと本格的に始まっただけのことだ。

だから、成熟国、欧米、日本では、インフレが起きることはないのだ。
やはりインフレは起きない

世界経済を、たったこんな単純な一言で説明できるのなら、誰も苦労はしないし、そもそも経済学者などいなくてもいい。

それにしても、であります。(アゴラの住民にして)慶応大学の准教授のレベルが、この程度とは、なんともなさけない限りであるの、一言であります。

これと対照的なお話が、こちらであります。

もちろん、これがアゴラ村の住民でありながら、学者としての矜持も維持したいがためではありますが、これから半年、アゴラ村の住民であり続けるのか、池尾先生には、必ずや、この選択をせまられることになると、いまKAIは、こう予言するのであります。 
情報戦とは--孫子の兵法応用編・最終章、投稿日:2013年3月 3日
KAIの予言的中であります。
池尾 和人(@kazikeo)
4月24日の投稿を最後に、アゴラを去られたようであります。

慶応大学教授である池尾和人先生におかれましては、これが正解であります。

経済学者を名乗る以上、論理的不整合の記事を掲載し続けることは、永遠に記録が残るネット社会では、あり得ないお話であるからであります。

しかし、これが、冒頭の御仁をはじめとして、ほとんどの学者と名乗る方々は、気が付かない。

いったい、これはなぜなのか。

そこで、まずこれを理解するためのキーワードとなりますのが、「東大話法」であります。

安冨の示した東大話法の概念は、「常に自らを傍観者の立場に置き、自分の論理の欠点は巧みにごまかしつつ、論争相手の弱点を徹底的に攻撃することで、明らかに間違った主張や学説をあたかも正しいものであるかのようにして、その主張を通す論争の技法であり、それを支える思考方法」[1]というものである[2]。

「東大話法」は相手を言いくるめ、自分に従わせるための、言葉を使った暴力と説明される。この話法は東京大学の教授や卒業生だけが使う技術というわけではないが、使いこなせる能力を有する人物は東大に多く集まっているともいう。学者、官僚、財界人、言論人に、この話法の使い手や東大話法的思考をもつ人が多いと安冨はいう。権力の集まる場所にいる人の多くが東大話法を操っており、その技術が高い人が組織の中心的役割を担う、これは国民にとって大変な不幸である、と安冨は述べている[3] 。
東大話法、Wikipedia

いかがでしょうか?

ね?小幡績氏の一連の言動に、これはまったくもってぴったりかんかん、そのまんまであると、KAIは思うのであります。

おまけに東京大学経済を首席で卒業とあるのであります。

と、レッテル貼りするだけでは、今回の問題の本質を見誤ることになりますので、ここは注意する必要があるのであります。

と言いますのも、この言葉のきっかけとなった原発問題に限らず、この経済問題においても、いったいなぜ、東大話法なる「論理的不整合」が、公然とまかり通るのか、と言う、こちらの問題にこそ、この「病理」の本質があるからであります。

そして、この問題についても、すでにこのKAI_REPORTにおいては、何度も考察を重ねてきているのであります。

「レトリック思考」が、いかなるものであるのか。

ふりかえってまわりを見渡しますれば、哀しいかな、日本に現存するほとんどの「論壇」は、この「レトリック思考」に汚染されつくしているのであります。

例えば、先日までの金融緩和についての議論であります。

結局のところ、彼らが議論するのは、「理論」の正当性ではなく、その「理論」は放っておいてこの「理論」から導き出される「結論」の真偽だけであります。

なぜそうなるのかと言えば、「理論」自体の正当性を闘わせるだけの、自前の「理論」、すなわち「哲学」を持ち合わせてはいないからであります。

「東大話法」に代表されるように、ことごとくすべてが、他人の借り物の「理論」しか、持ち合わせてはいないのであります。

これを変革、変えていくことができるのは、唯一、教育の現場しかないのであります。
なぜ哲学は不在するのか?(3)

そうです、あの「レトリック思考」が原因であったのであります。

哀しいかな、小学校から大学までに至る教育現場を始めとして、社会のすみずみまで、日本の社会は、この「レトリック思考」に汚染されつくしているのであります。

でありますから、この「論理不整合」と言う「不正」に、社会が、悪い意味の寛容、無頓着、不感症故の、不正義がまかり通るのであります。

この不正義にきわめて不寛容である欧米社会では、一度たりと言えども、不整合の言論をした者は、論壇はおろか、テレビ、新聞、一切のメディアから追放されるのであります。

つまり、言動こそ人格であります。

ですから、彼らは真剣であります。

これが、この日本と言う国の「学者」を自称する方々には、決定的に欠けているのであります。

これを正していくためには、先に引用しましたエントリーに書かせていただきましたように、これは「教育」しかないのであります。

とは言え、併せてネット社会による「教育」も「あり」だと、KAIは考えているのであります。

「不整合」の言論は、ネットに永遠に残るのであります。

これを、機会あるごとに指摘していくことも、これまた立派な「社会教育」になると思う所以であります。 KAI