「言い方が悪い」と言う反論はなぜ最強なのか?

  • 投稿日:
  • by

大多数の、「人のために人生を捧げる」人間に、「敬意」とは真逆の「冷笑」と「侮蔑」を浴びせかける人々の存在

前々回のエントリーで、KAIはこう書かせていただいたのであります。

これに対して、なぜそういった人々が(大多数に)存在するのか。

なぜ、日本人の大多数(の特に女性)は、こうなるのか。

これについては、明確なその理由となる「メカニズム」があるのでありますが、今回はこれをご説明するのが本旨ではありませんので、これはまたの機会とさせていただくのであります。
「人のために」やるべきことがある

この「メカニズム」について、今回、これをあらためてご説明するのであります。

そして、いきなり、結論であります。

これをもう少し具体的に申しあげますならば、「内なるもの」に対しては「プラス」に「反応」する「くせ」があると言うことであり、逆に「外なるもの」へは「マイナス」に「反応」する「くせ」があると言うことであります。

でありますから、例えば誰かの「意見」や「主張」が、自分にとって「内なるもの」と識別した瞬間、「賛成」となり、反対に「外なるもの」には「反対」と、ある意味、自動的に決まってしまうことになるのであります。
内なるものと外なるもの--その本質とは?

そうです、あの「内なるものと外なるもの」問題に、その「メカニズム」の本質があったのであります。

んん?

わからんけど、と言う方のために、もう少し具体的にご説明するとしますと、「敬意」とは真逆の「反応」と言うのは、「内なるものと外なるもの」問題で言いますところの、「マイナス」の「反応」のことであります。

すなわち、「人のために人生を捧げる」人間に「マイナス」の「反応」をする、いわゆる「批判者」となる人々にとって、「人のために人生を捧げる」人間とは、「外なるもの」となる存在であったのであります。

それではなぜ、「人のために人生を捧げる」人間が、「外なるもの」となるのか。

すでに「批判者」の大多数が女性であると申しあげているのでありますが、実はこれを理解するヒントが、この「女性」と言うところにあるのであります。

これから申しあげますことは、それこそ「性差別」や「女性蔑視」でもなんでもございませんので、ご理解いただきたいのでありますが、「女性」と言う「性」にとって、自分と言う「種」の保存には本能的なものがあるのであります。

つまり、「女性」にとって、「家族」こそがアプリオリに「内なるもの」であるのであります。

このような環境の中にあって、突然、「人のために人生を捧げる」と言う人間が現れると、この「女性」がどういった反応をするのか。

これを考えればよろしいのであります。

「人のために人生を捧げる」と言うセリフの中の、「人のため」とは、一体誰を指して言っているのか?

これは明らかに、「家族」ではない、その他大勢との認識となるのであります。

もっと言えば、「人のため」なんて言って、結局「自分のため」でしょ、と言って批判までするのであります。

結局、「家族」である「内なるもの」以外と言うことで、これは「外なるもの」に自動的に分類されることになるのであります。

では、大多数の「女性」の中にあって、「批判者」とはならない「女性」の存在とは、これをいかに説明すればよろしいのでありましょうか?

それは、その「女性」にとって、たまたまこの「人のために」と言うところが対象とする「人」の存在が、すでにその「女性」の「内なるもの」の中にあったからであります。

あるいは、「人のために人生を捧げる」と言う人間その人が、「女性」にとって「内なるもの」であったと言うことでありますが、今回の橋下徹発言問題でも、こういった「女性」より、アプリオリに「家族」と言う「内なるもの」を優先させる女性のほうがいかに多いか、これが証明されることとなったのであります。

と言うことで、ご理解いただけましたでしょうか?

そこで、本題はこれからであります。

さきほど、「批判者」は、「人のため」なんて言って、結局「自分のため」でしょ、と言って批判すると申しあげたのでありますが、これに加えて、「批判者」の強力な「マイナス」反応をご紹介するのであります。

それが、あなたの「言い方が悪い」、と言う反論であります。

これが、いかに「最強」の反論であるか、これをこれからご説明するのであります。

まずは、「批判者」の「反応」でありますが、さきほどご説明しましたとおり、これは「外なるもの」から自動的に出てくる「マイナス」の「反応」であるのであります。

決して、「批判」する相手の発言の「内容」の是非について、これを「論理的」に理解したうえでの「反応」でもなんでもないのであります。

と言うことは、発言の「内容」にではなく、必然的に表現の「方法」である「言い方」が批判の対象となるのであります。

これは、実に「狡猾」と申しましょうか、「批判」される立場からすれば、「反論」のしようがないのであります。

せいぜいが、「では、どういえばよかったの?」と言い返すくらいでありますが、これに対しては、

「そんなこと自分で考えるのが当然でしょ!」

「ちゃんと説明できないってことは、結局言ってることが間違ってるってこと!」

「相手の気持ちになってないから、伝わらないの!」

と、つぎつぎと畳み掛けられるのがオチであります。

では、これに対抗する強力な手立ては、ないのか。

残念ながら、これはございません。と言ってしまえば、みも蓋もないないのでありまして、あと少しこれをご説明するとしますと。

まさに、この答えは、今回橋下徹の絶体絶命(とはこれっぽっちもKAIは思ってませんけど)と言われるピンチをいかに切り抜けるか、この中にあると、KAIは考えているのであります。

今後予定されている、外国特派員協会の会見と、元慰安婦との面談がキーポイントです。
残念ながら、この「元慰安婦との面談」はキャンセルされたのでありますが、まことに興味深いのは、元々この面談なるもの、元慰安婦側からもちかけられたものであったことであります。

もちろん、このキャンセルの意味は、この面談が、橋下徹を利することになることを察知した「批判者」側の指図に基づくものであるのは、明らかなのでありますが、すでにこの面談のキャンセルは、「言い方が悪い」と言う反論さえできなくなっていると言う意味で、きわめてこれに対抗する手立ての存在を示唆するものとなっているのであります。

すなわち、当事者の間と言うような「クローズ」ではない、「オープン」な議論の場こそ、「言い方が悪い」論者を木っ端微塵に粉砕する、かっこうの場となるのであります。

でありますから、5月27日に予定されています「外国特派員協会の会見」こそ、ぜひともみなさん、ご注目いただきたいのであります。

これこそが「ディベート」と言うものの、典型的事例となるのであります。

そして、この結果は、「世界」が「一変」する。

こう、KAIは断言して、このご説明をお仕舞いとするのであります。 KAI