なぜか、このシリーズは長続きするのでありますが、「レトリック思考」論者と議論をする場合の注意事項について、ご質問をいただきましたので、ご説明させていただくのであります。
■「理由」に反論してはいけない
レトリック思考とは、「結論」と後付け沢山の「理由」から構成されているのでありますが、みなさんがこの「結論」について反論するために、「理由」を取り上げてそれに反論してしまうと、それは彼らにとって思う壺となるのであります。
それは、前回も申しあげたのでありますが、彼らにとってひとつひとつの「理由」は、たんなる「説明」する「理由」であります。
でありますから、そのいくつもある「理由」のうちの、一つや二つの「理由」に反論しても、彼らにとって痛くも痒くもないと言うことであります。
しかも、そのひとつひとつの「理由」なるものの「根拠」はそもそも薄弱でありますから、議論すればするだけ水掛け論になって、まったくもって「結論」そのものに反論する前に、討ち死にとあいなるのであります。
と言うことで、一番いいのは、「レトリック思考」論者は無視する、と言うのが答えでありますが、どうしても「反論」したいと言う方には、これにご注意いただきたいのであります。
■どうしても反論するなら「結論」に反論する
彼らの提示する「理由」には一切ふれずに、「結論」そのものに「反論」する。これがコツであるのであります。
もちろん、このためには、みなさんには、自分の「哲学」を持つことが必要となるのであります。
ここで、「哲学」なんてと、怖気づくことは、まったくもって必要ないのであります。
誰にでも、「人生哲学」は、ある。
これを使えばいいのであります。
例えば、自分の「人生哲学」が、「家族が一番大切」とするとすると。
「グローバル資本主義」原理に反論することは、きわめて簡単なんであります。
つまり、「グローバル資本主義」のいったいどこが、私たちの「家族が一番大切」と言う価値観を破壊するのでしょう?
もちろん、「レトリック思考」論者は、これには無反応をきめこむのであります。なぜなら答えがないからであります。
たまに、酔狂で反論する論者もいるかもしれませんが、「家族が一番大切」を突き崩すことは不可能だったのであります。
では、ここで、応用問題であります。
今回の、憲法96条改正問題について、こんなことを言う人たちがいるのであります。
小林:そうそう。明治憲法下で「立憲主義」という言葉は「議会制民主主義」を意識的に誤訳して使っていたんです。「立憲主義」は、主権者・国民大衆、つまり非権力の国のオーナーたちが権力を乱用しないように、枠をはめるもの。国民の幸福追求を守り、サービス機関としてきちんと律する。そして人権を侵害させない......はずのものだったんです。すなわち、憲法とは「権力者」をしばるものだから、「権力者」側がこのしばりをゆるくするのはおかしい、という「理由」であります。六法のうち他の5つは法律ですから、「主権者国民の代表たる国会が、国家の名で我々の行動をしばるもの」ですよね。「借りた金は返しなさい」とか「人を殺しちゃいけません」とか。だけど、憲法だけは唯一例外。主権者国民ではなくて、権力者を枠にはめる。だから、法律と言わずに「憲法」というんです。
大谷:つまり"憲法違反"には誰がなるかというと、国民ではなく、国家権力や行政がなるということですね。
小林:そうです。憲法記念日の集会などで、護憲派が「憲法守るぞ」と言っている姿を見ると違和感を覚えます。正しくは「憲法を権力者に守らせるぞ!」ですね。権力を行使しようがないから、非権力者は憲法を守りようがありません。
大谷:その中で、まさに今焦点となっているのが、「憲法を変えるための手続きを定めた憲法96条のハードルをどうするのか」という議論です。お話を伺っていると、岸元総理の時代から反対意見はあったようですが、縛られるべき国会議員側から改憲問題が出てくるのはどうなのでしょうか?
小林:怪しいですよ!憲法が厳格に権力者を縛り、簡単に乗り越えられない硬性憲法だから、権力者は不自由です。その不自由を感じている権力者側から、「この縛りを取り除いてくれ」という提案が、今来ているわけですよ。
主権者国民大衆の権力を条件付きで扱っている権力者達が、この条件を取り払ってくれと言っているのは、主権者国民から自由になりたいから。これは反逆ですよ。こんなことは、改憲論者の私としてもアンフェアだと怒っているわけです。
(正しく理解されていない96条改正の意味)
これは、一見正論であるかのようにみえるため、ついつい96条改正反対に与する立場に理解を示すかたがたが、少なからずみなさんのなかにはいらっしゃるはずなのであります。
しかし、これもまた、みごとなまでの「レトリック思考」であったのであります。
もちろん、冒頭に記しました「注意点」がありますので、この「理由」に反論するのはご法度なのであります。
では、どうやって、反論すればいいのか。
それは、そもそも「96条改正反対」自体が、「結論」ではなく「理由」であることに気づく必要があるのであります。
もともとある「結論」とは、「憲法改正反対」であります。
ところが、話をややこしくしているのが、「憲法改正賛成」であるけれども「96条改正反対」を訴える人々であります。
すなわち、この人々は、「結論」にではなく「理由」に反論することを誘引しようとする方々であるのであります。
この「構造」が理解できればお話は、簡単であります。
彼らの「結論」である「憲法改正賛成」を、徹底的に叩けばいいのであります。
そうすると、おのずと、彼らが言う「96条改正反対」である「理由」の「ウソ」が丸見えになってくるのであります。
具体的には、こうであります。
そもそも「憲法」とは、なんであるのか。
これこそが、私たちが持つべき「哲学」なのであります。これが一番最初にあるのであります。
「歴史の神秘に育まれた国家とは祖先の叡智が幾世期も幾十世代も堆積したそのうえに築き上げられた荘重な建造物であり、祖先より相続した『世襲の生命体』である。この故にまた、悠久に国家が永続していくための命と活力のエネルギー源は、祖先を尊崇し祖先が遺した伝統や慣習を畏れをもって保守していく子孫たちの、いわゆる『保守主義の精神』にしかない。これは、このシリーズ最初で取り上げた「哲学」であります。すなわち、われわれ国民が『世襲の義務』である『祖先を畏れる精神』『伝統・慣習を保守する精神』を仮に失うとすれば、国家は生命源を涸渇させていくから、最後には亡国の淵に立つ。
国家とは過去の祖先と未来の子孫と現在の国民とが同一の歴史と伝統とを共有する精神の共同社会であるから、国家が魂を再生して永遠に存続するには過去と未来と現在の国民とがいつもパートナーシップの絆で結ばれていなくてはならない」 (P3)
(正統の憲法 バークの哲学)
「国家」とは、その「歴史」であると。
「憲法」も、その「歴史」の中にあるのであります。
この意味において、なぜこの「憲法」を変える必要があるのか。
それは、「憲法」を、「国家」の「歴史」にそったものに変えていくためであります。つまり「憲法」が「権力者」をしばるよりなによりも前に、「国家」の「歴史」にそっていない「部分」を、これがそうように変えるというのが「憲法改正」であるのであります。
ではいったい誰が変えるのか?
「国民」であります。
しかし、現状はそうはなってはいない。
「権力者」が、これを阻止できるようになっているのであります。
おわかりでありましょうか?
「憲法改正反対」論者は、もうこれは端から、実は(一部の)「権力者」と結託しているだけだったのであります。
では、「憲法改正賛成」論者はどうか。
実に不思議なことに、個々の憲法改正論議をといって、改正そのものは「権力者」にこれを委ねようとするのであります。
いったい、なぜ?
実は彼らは、そもそもにおいて、「憲法」をなぜ「改正」しないといけないのか、その「哲学」を持ち合わせてはいないからであります。
橋下のような、道州制や統治機構改革といった「哲学」ではなく、あえていえば、個人的な自分の「都合」、「利益」の確保が主たる目的であるからであります。
でありますから、まずは、「国民」として自分たちで「憲法」を改正するのが、いの一番にあると言うことが、すべての議論の大前提となるのであります。
それでも、どうしても96条改正反対と言う方々は、まず「国民」の望む「憲法」に改正した後で、96条を現状に戻すと言う憲法にすることをお勧めしたいのであります。
「憲法改正賛成」論者のみなさん、まずは、「憲法改正」しないことには何も始まらないことに、なんとしても気づく必要があるのであります。
それでも、96条改正反対を貫き通すと言う「改正賛成」論者の方々は、ほんとのほんとの自分の本心は「改正反対」であったのだと、気づかれるほうがよろしいかと、KAIは思うのであります。 KAI
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