前回の、ウチダ先生が朝日に寄稿なさった文章があいもかわらずの「レトリック思考」であるとのKAIの指摘に対して、いまひとつこの意味がわかりにくいとのお言葉がありましたので、くどいようではありますけれども、もう一度ここでご説明したいと思うのであります。
ずっと申しあげておりますが、「レトリック思考」と言いますのは、まず「結論」ありき、の思考方法であります。
この「結論」が一番最初にあって、これを説明する「理由」なるものを後付けすると言うのが、「レトリック思考」の大きな特徴となるのであります。
これは、よほど注意してかからないと、一見もっともらしく見えるのでありますが、彼らの論の進め方は、あとから思いつく「理由」なるものを次々と並び立て、この結果、この「結論」しか考えられない、と言う論理展開となるのであります。
これが、いかに欺瞞に満ちたものであるかは明々白々であるのでありますが、なぜか日本人の多くの方々が、この思考方法が大好きでありまして、諸手を上げて受け入れてしまうのであります。
今回の場合で申しあげますと、ウチダ先生の「結論」とは、「国民国家とグローバル資本主義の利益相反」であります。
この結論を今回は、「グローバル資本主義」による「国民国家」の解体が始まる、と言い換えているだけであります。
そして、お得意の、後付けによる「理由」のかずかず。
- ウェストファリア条約
- 無国籍企業
- トヨタ自動車
- トリクルダウン
- もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業すること
- 企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援
- 大飯原発の再稼働
- 電力価格
- 生産拠点を海外に移す
- 国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる
- 放射性物質で汚染
- 除染のコスト
- 汚染地の製品が売れるはずがない
- 国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源
- 環境保護コストの外部化
- 製造コストの外部化
- 流通コストの外部化
- 人材育成コストの外部化
- グローバル企業の基本的な戦略
- 外部化されたコスト
- 企業利益の増大=国益の増大
- 国民的一体感
- 日本経済の旗艦
- 中国韓国を外交的に挑発
- 国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替える
- 日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス
どの文言をとってみても、一見「国民国家とグローバル資本主義の利益相反」を「理由」付けしているかのように見えるのでありますが、ここでウチダ先生は、おおいなる欺騙をしかけておられるのであります。
みなさんには、もう一度この文言をよーく眺めていただきたいのであります。
ことごとくの文言が、「利益相反」=「理由」、すなわち、「利益相反」であることを単に「説明」するための「理由」になっているだけであることに、お気づきいただきたいのであります。
決して、どの文言も、「利益相反」であることを、「事実」であると「証明」する「理由」には、なってはいないと言うことであります。
この「説明」と「証明」は、決定的に異なる概念であるのであります。であるにもかかわらず、平然と同じ「理由」として、故意に「混同」させるのが彼らの手口だったのであります。
でありますから、企業利益の増大=国益の増大をみな信じているなどといった「理由」ひとつをとっても、これが「事実」であるのか、そうでないのかを「証明」されることなく、まるで「前提条件」であるかのようにつぎつぎと例示されていくのであります。
と言うことで、この「レトリック思考」のワナにはまると、こういったコメントになると言う、典型をご紹介するのであります。
内田氏の論考は「国民国家」を取るか「グローバル化」を取るかといったような二者択一の問いになど立っていません。そんな問いは無理だ。<「国民国家」を解体して「グローバル化」を推し進めるのであれば>とおっしゃるのでありますが、これはまったくもってなにも「証明」されていないのであります。
「国民国家」を解体して「グローバル化」を推し進めるのであれば、その中での新たなるルールを策定すべき、模索すべきだという事です。
その一つの課題が富の再配分でしょう。すでに今の状態で、富の偏重という歪があることは明白です。
社会のリーダー(政治家、企業経営者、オピニオンリーダー、経済学者・評論家)が、
この歪を是正して再配分に知恵を絞らずに、先々に不確かな「トリクルダウン」だの「トリクル・アップ」だのといった画に描いた餅を持ち出すだけだとしたら、それこそが「お気楽」すぎる。
(内田樹教授の寄稿「壊れゆく日本という国」について一言、コメント05月09日 11:06、Akira MORI)
こんな「仮説」をもとに、いくら「富の再配分」をどうこうするなどと言う論を重ねてみても、もしこの「仮説」が間違っていれば、この議論になんの意味も、価値も、みいだすことはないのであります。
と言うことで、いかがでしたでありましょうか。
「レトリック思考」が、いかなるものであるのか。
ふりかえってまわりを見渡しますれば、哀しいかな、日本に現存するほとんどの「論壇」は、この「レトリック思考」に汚染されつくしているのであります。
例えば、先日までの金融緩和についての議論であります。
結局のところ、彼らが議論するのは、「理論」の正当性ではなく、その「理論」は放っておいてこの「理論」から導き出される「結論」の真偽だけであります。
なぜそうなるのかと言えば、「理論」自体の正当性を闘わせるだけの、自前の「理論」、すなわち「哲学」を持ち合わせてはいないからであります。
「東大話法」に代表されるように、ことごとくすべてが、他人の借り物の「理論」しか、持ち合わせてはいないのであります。
これを変革、変えていくことができるのは、唯一、教育の現場しかないのであります。
なんと、わが中学校以来の同級生が、日教組の委員長であったとは。驚愕の事実であったのであります。 KAI
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