日銀理論ほどひどいお話ではないのでありますが、ボタンを掛け違うと、すべて黒のものが白に、白のものが黒に見えてしまうと言う、典型のような記事がありましたので、ご紹介するのであります。
イギリスフィナンシャルタイムズの記事に物価インフレと資産インフレという興味深い表現がでていました。今の状況をたった一言で見事に言い当てていると思いますが一般的には案外、使い分けていない気がします。今日はこのあたりを考えてみましょう。この記事の筆者は、「物価インフレ」と「資産インフレ」と言う言葉をキーワードにして、最終的にアベクロコンビと揶揄する今回の量的緩和効果に疑義をとなえているのであります。
(物価インフレと資産インフレ)
まずは、「物価インフレ」と「資産インフレ」と言う表現について、これは別にファイナンシャルタイムズが悪いわけではないのでありますが、基本的に用語として正確さに欠けると言わざるを得ないのであります。
前回引用しました高橋洋一氏の記事にもあるとおり、インフレ率やインフレ目標で使用する「インフレ」とは、消費者物価を指して言う用語であります。
従って、「資産インフレ」と言う表現はきわめて誤解をまねくものでありまして、案の定この筆者の、この記事の後半の内容は見事に日銀理論のワナにはまっていくのであります。
と、その前に、前回KAIがレポートした内容を再度引用させていただくのであります。
資産バブルとインフレバブルとはまったく別物であるとは、バーナンキ・FRB議長の過去に証言するとおりであります。そうです、「物価インフレ」と「資産インフレ」ではなく、「資産バブル」と「インフレバブル」と言う言葉でこれを説明しないことには、この日銀理論と言う理論が「偽り」の「理論」であったことに、みなさんまったく気づかないのであります。
(無謬性--この偽りの正統性が正されるときがやってきた)
と言うことで、ヒロ氏の記事の後半であります。
さて、80年代後半のバブル経済の時、インフレ率はどれぐらいだったのでしょうか?1986年から1988年の3年間の平均のインフレ率は年平均でわずか0.47%に過ぎないのです。このころは日本中が不動産や株式のバブルに湧き、踊った時代です。これは過剰流動性による資産への資金流入から起きたまさに資産インフレそのものなのであります。つまり、80年代後半のバブルは、「インフレバブル」ではなく「資産バブル」であったと言うことであります。
(物価インフレと資産インフレ)
この「資産バブル」に対して、当時の大蔵省が動いた。
筆者は、当時大蔵省証券局でバブルを目のあたりにして、バブルの是正のために、証券規制を実施した担当官だった。筆者の現場感覚からいえば、バブルは、証券・土地規制の抜け穴によって、証券・土地のみで起こったことだ。その是正には証券・規制の適正化で十分だった。金融引き締めは余計なことだった。この高橋洋一と言う、本物の「当事者」が証言するとおり、「資産バブル」に対しては、大蔵省と言う金融当局がバブル潰しに成功していたのであります。当時は、株や土地の価格は上がっていたが、普通の財サービスの一般物価は上がってなかった。
当時、筆者が検査などで見た光景は、ほぼ違法ともいえる証券会社の営業であった。顧客に対して損失補填を約束しながら株式の購入を勧めていた。その株式の購入資金を顧客の自己資金でまかなうのではなく、銀行が融資するというパターンも横行していた。これは何も株式の購入に限らず、土地の購入でもよく見られた話だ。
そこで、大蔵省内で検討した結果、1989年12月26日、大蔵省証券局通達「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」を出し、証券会社が損失補償する財テクを営業自粛、事実上禁止した。筆者はこの通達の起案者だ。その効果は抜群で、89年末の最高値をつけた後直ちに株価は急落した。
株式規制だけを適正化するのでは資金が土地に流れるといけないので、90年3月には大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」を出し、不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑える措置をとった。これで、株式と土地のバブルは消えた。
(バブル再来懸念に答える、その生成と崩壊への対応を検証する)
であるにもかかわらず、であります。
であるにもかかわらず、三重野康は過剰な金融引き締めを強行したのであります。つまり、日銀は、本来対応すべき「インフレバブル」に対してではなく、「資産バブル」に対して「金融政策」を強行して、これを公定歩合と言う「日銀利権」に利用したのであります。これによって日本経済は取り返しのつかないダメージを受け、デフレ社会と言う奈落の底へとまっさかさまに転落していくことになるのであります。
以降必死に這い上がろうとする日本経済に対して、日銀は「瑕疵」を繰り返すのでありました。
(無謬性--この偽りの正統性が正されるときがやってきた)
その結果、日本経済の激しい落ち込みに対して、日銀は金融緩和に転じざるを得なくなるのであります。
日銀は速水総裁の時代である2000年ごろから急速に金融緩和を推し進め、そのマネタリーベースは上昇の一途をたどっています。ところがであります。またしても、日銀は政府の反対を押し切って、「インフレバブル」でもなんでもないのに、量的緩和解除に踏み切るのであります。
(物価インフレと資産インフレ)
福井総裁の時の2006年に政府の反対を押し切って量的緩和を解除し、マネタリーベースは一旦下落するもののその後を引き継いだ白川総裁の「積極的」な金融緩和で2012年には2006年のマネタリーベースを抜き、歴史的な金融緩和が起きているのです。もうめちゃくちゃであります。
(同上)
「歴史的な金融緩和」なんか、これぽっちも起きてはいなかった。
だって、白川総裁の金融緩和を「歴史的な金融緩和」って言うのなら、この筆者は「アベクロコンビ」の金融緩和をなんと表現なさるのでありましょうか。
今、アベクロコンビが目指すインフレを2年で2%という分かりやすい目標はどちらのインフレを言っているかといえば物価インフレであるはずなのですが、現状起きつつあるのは資産インフレであります。例えば速水総裁が行った金融緩和で潤ったのは株式市場でした。1万円を割った株価は一気に反転し、18000円台まで上昇するのですが福井総裁が引き締め行ったところ、若干のタイムラグを経て再び株価は10000円を割り込むのです。まったくもって、論理矛盾もはなはだしいのであります。
(同上)
なんと「速水総裁が行った金融緩和」のおかげで「株価インフレ」が起こった?!
盗人猛々しいとは、このことを言うのであります。
この当時の景気回復は、小泉竹中の経済政策によるものであり、だからこそ、「きみたち」は、「格差社会」と言うデマで民主党政権と言う日本の大不幸をたぐりよせたのではないですか?
つまり、金融緩和が株式市場に一定の効果があったことは見られるのですが、インフレについては2002年の金融緩和から引き締めの2006年までほぼマイナスのままでありました。(2006年のみプラスの0.24%です。)なぜ2006年のみ、たったの「プラスの0.24%」のインフレで、金融引き締めをしたのでしょうか?お答えいただけませんか?
(同上)
では物価インフレは起きうるのでしょうか?アメリカをみたらよい参考になると思うのですが、QE3まで進めて来たのにインフレには至っておりません。カナダもこのところ、インフレ率が下がりつつある状況で金利を上げるといい続けた中央銀行はむしろ、言い訳を探すのが大変な状況になっているのです。いえいえ「事実」は、そんなことはございません。なぜ、インフレは起きないのでしょうか?
(同上)
「インフレバブル」ではないものの、十分「インフレ率」は維持していることをご存じないのでありましょうか。
それとも、本論の「仮説」を維持するためには、「事実」さえ正視できなくなっておられるのでありましょうか。
結果としてアベクロコンビが作り上げるのはやはりAsset Bubble Economy(資産バブル経済), 略してABEなのであります。それは結果として持てる者は更に富み、持たない者の生活は変わらない、という状況を作り出す公算はあります。経済が富裕層から庶民へ循環する状態が作り出せればよいのですが、そこまで到達できるか、興味を持って見守るしかないのでしょうか?アベクロ「量的緩和」によって生み出されるのは「資産バブル」であると、この筆者は主張はするのでありますが、この記事を読む限りこれを筆者はなんら立証してはいないのであります。
(同上)
かように、「日銀理論」と言う偽りの「正統性」とは、強力に人々を「洗脳」していたのであります。
この「洗脳」から一日も早く解かれんことを、KAIは願うばかりであります。 KAI
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