昔からメディア論ほど語りつくされたテーマは他にないと思われるのでありますが、インターネット時代に入って、その有償化ビジネスモデルがいまだ軌道にのっていない現状を考えると、これは、まだまだこの議論には漏れがあるし、議論の深みも足りていないと言う客観的証拠なんであります。
そこで今回のレポートのテーマは、「メディア」とはなんであるのか、この本質についてここであらためて考察するのであります。
そして、これを考える際のキーポイントとなるのが、メディアとは、「機能単価」モデルであるのか、「情報単価」モデルであるのか、なんであります。
ここでこれが「単価」と言う用語を使用しているために、ジャーナリズムとの関係がないではないかと思われるかもしれないのでありますが、いえいえ、これは直接的に関係してくるのであります。
これについては後半に論じることにしまして、まずは、「機能単価」モデルと「情報単価」モデルの理解であります。
放送と通信とビジネスモデルこれをお読みいただければ、例えば新聞と言うメディアとは「機能単価」モデルであることが一目瞭然に理解できるようになるのであります。
すなわち、<新聞社>、<新聞配達所>、<新聞紙>が一体となって、情報伝達「装置」としての機能をはたすと言う、正真正銘の「機能単価」モデルであるのであります。新聞購読者は、これに月額定額の購読料を支払っているとみなせるのであります。
もちろん、ビジネスモデル的には、新聞広告やチラシ広告についても検討する必要があるのでありますが、今回のメディアの本質を理解するためにはとりあえずこれはおいておいても結論に影響はないのであります。
と言うことで、新聞と言う「メディア」に対して、みなさんは一見「情報」にお金を支払っていると思っているのでありますが、実態は情報伝達「装置」と言う「メディア」に対してお金を支払っていたのであります。
でありますから、この「装置」の中を流れる「情報」の中身が同じであったとしても、「装置」自体が例えば「インターネット」と言う別のモノに変わってしまえば、当然のようにその「機能単価」は変わってくるのであります。
つまり、この「単価」と、「情報」の中身であります情報の「質」との間には直接的な関係はないと言う事実に、みなさんは気がつく必要があるのであります。
であるとすると、いったいこの「単価」とはなにで決まるのか。
その答えを申しあげますならば、それは「市場」であります。
そうです、メディアと言う「装置」の単価もまた、一律に資本主義経済の要である「市場」によって決定されているのであります。
そこで問題となるのが、「インターネット」と言う「装置」であります。
ご承知のように、この「装置」の「単価」とは、基本は「無料」であります。
でありますから、単純にこの「装置」をそのまま使って「新聞」を有償化するビジネスモデルには、原理的に無理があるのであります。
では、どうすればいいのか。
このヒントになるのが、「メルマガ」と略して呼ばれるメールマガジンであります。
毎月500円前後の料金で、定期的にメールが届くこのシステムが、いま見直されているのであります。
もちろん、この「メルマガ」もまた、「情報」にお金を支払っているのではなく、「メルマガ」と言う「装置」に対する対価となっているのであります。
そして、この「装置」の中を流れる「情報」とは、他の「装置」で流れる「情報」とは違う、この「メルマガ」と言う「装置」の特性に合った独特の「情報」となるのであります。
ただこの場合にご注意いただきたいのが、この「装置」が、「新聞」のようなモノではなく、「アプリケーション」と言う「ソフトウェア」である点であります。
さらにもう一つの重要な点とは、いずれもプッシュ(push)型と言われる、自分で情報を取りに行く必要のない「装置」であることであります。
ここまでお話して、ようやく「メディア」とはなんであるのか、これを理解する手がかりを得ることができるのであります。
すなわち、「メディア」とは、これが「アプリケーション」を含めて自動的に消費者に対して「情報」を伝達するための「装置」であると言うことであります。
かようにお考えいただければ、「新聞」を「インターネット」上で有償化するためには、「アプリケーション」と言うもうひとつの「装置」が必要であることに、容易に気づくことになるのであります。
ただしかし、これはいま盛んに新聞社が提供するアイフォンアプリなどといったものとは本質的に異なるものとなるのでありますが、いったいこれはなぜなのか。
これをご説明しますと、「メルマガ」と言う「装置」には、この特性にあった「情報」が必要であると申しあげましたが、インターネット上の「アプリ」と「情報」の関係もまったく同様に考えればよろしいのであります。
つまり、いままでの「新聞」でもない、いままでの「インターネット」でもない、新しい「アプリ」と言う「装置」の特性でしか発信できない「情報」を用意することでしか、インターネット上の有償化モデルは成功しないと考える必要があるのであります。
ここで、これを考えるうえでこのヒントになる記事をご紹介するのであります。
そうです。自社の記事の中から、総裁候補の過去の実績や言動を時系列にピックアップできる「アプリ」であります。?財務省や日銀の考え方を反映している人物かどうかを判断するのは、安倍政権の仕事である。岩田のように過去の実績や最近の言動をチェックすれば、別に政権でなくても、考え方はだいたい分かる。メディアが、しっかり人物と政策をチェックすべきだ。
?メディアは「だれになるか」を当てるのが大好きだ。そんなことより、いまの段階は「候補はどういう人物か」を伝えるのが重要な役割である。政府はもちろんだが、議論と決定プロセスの透明性を確保するのはメディアの仕事なのだ。
(次の日銀総裁を当てるのはメディアの仕事ではない! 金融政策のレジームチェンジに必要なものは何か、を議論すべきではないか)
もちろん、こんな単純なものだけではお金は取れないのであります。
自社の新聞記事を知識ベースとする、知識ベース検索システムこそ、インターネット上のまったく新しい「アプリケーション」と言う「装置」となるのであります。
ただこれはしかし、プッシュ型にはなっていないのでありますが、もちろんこれにも抜かりはないのであります。これはツイッターで検索事例を逐次流していけばいいのであります。事前に登録しておいたジャンルの時事検索の事例が次々とツイッターで流れてくれば、有償会員だけがこの結果を閲覧できるのであります。
と言うことで、インターネット時代における「メディア」とは、「アプリケーション」と言う「装置」によって自在に「情報」を発信していくことに、その「メディア」の本質となっていくのであります。
そして、その時代の「ジャーナリスト」、「記者」の役割とは、なんであるか。これもまた重要な意味を持つようになると言うのが、続いてのお話であります。
?インターネット上に公開されている情報を基に、メディアあるいはジャーナリストが新たな付加価値を加えて、どんな情報を読者、視聴者に届けられるか。前回まで、そんな視点から「ニュースの思考法」について考えてきた。「記者」の役割が、1次情報の入手、あるいは、この記者自身による付加価値情報の提供にしか意味を持たなくなると言うことであります。「記者」は、これをせっせせっせと、自社の知識ベースに蓄積していくことが仕事になるのであります。?復興予算の流用問題が暴露された経緯やデータ・ジャーナリズムの試みは、いずれもネットに公開されている情報が出発点になっている。これは私にとって、ニュースというものを根本から考え直させる新鮮な出来事だった。ここでいったん、議論のポイントをまとめておきたい。
?私が新聞社に入社したのは1977年だ。当時、会社の幹部や先輩から最初に教わったことの1つに「とにかく取材相手に信頼される記者になれ」という言葉がある。「人間として相手に信頼されなければ、いい情報はもらえない」という趣旨と理解していた。
?たしかにそういう面はある。取材対象に「なんだ、この記者は」と思われてしまっては、相手にされないだろう。しかし「情報源に信頼される記者に」という教えについて、いま私は、必ずしも言葉通りに100%同意しない。
?なぜなら、それは「相手のポチになれ」という面を含んでいるからだ。たとえば多くの場合、官僚が記者の情報源になる。そこで「官僚に信頼される」というのは「官僚にとって都合のいい記者になる、すなわちポチになる」というのと同義である場合が非常に多い。
(ポチ記者たちの「特ダネ競争」の時代はもう終わった。記者のコミュニケーション能力やITスキルの高さが信頼を生むメディアとなる)
従来からの「新聞」と同じ情報は、どんどんインターネットに無料で公開していく。
ここから有償会員へと誘導すれば、あっと言うまに、「紙」の売上を超えていくのであります。
そして、最後の引用の記事であります。
「資金面で支えられていない取材、分析には限界」があるーこれはしみじみ、自分でも感じている。ネットでの記事の無償公開の限界についてであります。山田さんからは、言論空間のみでなく文化面で起きていることとして、音楽家佐久間正英さんのブログ(昨年6月のエントリー)をご紹介いただいた。「無料」あるいは「なるべく安く」という流れ・要求が、日本の音楽を文化として向上させることを難しくしていることについてのエントリーだ。
(モノづくりにはお金や時間がかかる)
ついでに話を拡げて、音楽ビジネスにまで言及しているのは、ご愛嬌としまして、インターネット上で、「言論空間」、すなわち「ジャーナリズム」を実現していくには、すでにご説明のとおりの、あらたなる「メディア」と言う「装置」の開発が必須であります。
フリーのジャーナリストと言えども、この「装置」とセットになって、「ジャーナリズム」を実現していくと言う発想を持たない限り、これからこの時代を生き残っていくことは不可能なのであります。
そして広告モデルにたよらない、このフリーのジャーナリストを支える「装置」をサービスするビジネスも、これから間違いなく登場するのであります。
かくして、これを「メディア」の進化と呼ぶのであります。 KAI
コメント