KAIもさんざん申しあげてきたことではありますが、こうして明快にご指摘いただくことが、私たち日本国民にとって、きわめて重要なことなんであります。
もちろん、KAIはなんどもなんども繰り返し警告してきたことであります。そして日経ビジネスの読者の皆さんに特に申し上げたいことがあります。次の10年間を主導していく企業の話の中で、日本企業がこうした議論に列挙されることがありません。この背景を特に私は主張したいのです。
目に見えないソフトウエアを軽視する日本
--確かにインターネット業界における日本企業の存在感は現時点で薄いと言わざるを得ません。教授は日本企業の弱点がどこにあると見ていますか。
先ほども申し上げたような世界を実現するのは極めて難しいことです。日本企業がアップルやグーグル、マイクロソフトに追いつくのは不可能と言わざるを得ない。この理由は明確です。日本はこの手の開発をしてこなかったからです。ソフトウエア開発が得意ではないことに加え、この問題を真剣に捉えようとしませんでした。ソフトウエアは蒸気のようなもので目に見えません。つまりアトムではありません。日本のビジネス文化は目に見えないソフトウエアの重要性を理解しませんでした。大学を卒業し、電気エンジニアとして働くことが良しとされ、プログラマーは活躍の場もなく、正当な評価もされなかった。
そのうちプログラマーはソフトウエアエンジニアと名を変えましたが、このときも日本の人たちは笑いました。空気をやり取りしているだけじゃないかとね。この認識は日本の文化に根深く残っており、その認識が大学や企業、デザイン分野に関してまで影響を及ぼしています。
(日本人は「ロボットの心」を創れますか?、スタンフォード大学名誉教授、エドワード・ファイゲンバウム氏に聞く)
この「目に見えないソフトウェアを軽視する日本」、いったいこれはなぜなのか、今回はこれを考察するのであります。アプリケーションにとってデータベースが命。車にとってエンジンが命と、まったく同じであります。
この「アプリケーション」にとって欠くべからざるデータベースの性能を、驚異的に改善する製品を供給するメーカーがFusion-io社と言うわけであります。
しかし、ここで重要なことは、Fusion-io社はなにもまったく新しい要素技術を開発してこの製品を生み出したわけでもなんでもないと言うことであります。すなわち、彼らの製品は、NAND型フラッシュメモリと言う高速半導体を、ストレージすなわち外部記憶装置に、単に応用しただけの製品なんであります。
もちろんこのためには、引用した記事の中にあるように、フラッシュメモリを使ったストレージの弱点を克服するための巨大キャッシュやエラー訂正機構搭載など様々な工夫が施されて実現されているわけではありますが。
実は、この構造こそがあのアップルのジョブズが生み出した製品と同じなんであります。
むしろ要素技術としての技術力から言えば、日本のメーカーの方がはるかに上であるにもかかわらず、iPodもiPhoneもiPadも、いっこうに日本からは出てきたためしがないのであります。
これがなぜなのか、この冒頭の疑問でもあるこの問いに答えるためにヒントとなるのが、「アプリケーション」と言うキーワードであります。
結論を先に言ってしまえば、日本の中では、製造業に携わる人だけではなく、おおよそ経済に関わる人々、これを伝えるマスメディア、これから就職しようとする学生を含めた一般の人々のことごとくが、この「アプリケーション」の価値を正当に評価できないでいるし、評価以前に「アプリケーション」の意味すらまったくもって理解できない人たちであるのであります。
いまや世界は、「貨幣価値」の時代から、「アプリケーション価値」の時代へと、革命的変化を遂げようとしているのであります。
いまや世界は、「アプリケーション」を中心にして動いている。「アプリケーション」を中心に世界が廻っているのであります。
この厳然たる事実を目の当たりにして、これから目をそらしあえて凝視しようとしないのが、日本と言う国の真実なんであります。
(Fusion-ioが考えるイノベーションはとってもシンプルかつプリンシプル)
そして、このヒントになるエントリーを、KAIはすでにここに書いていたのであります。
ここで論じた、「モノの技術の身体性」も、「ソフトウェアの身体化」も、もちろん日本人に限ったお話ではないのであります。ここで言う「逆進」、逆の流れとは何を意味しているか、技術と言うものが常に身体性を帯びていることを前提に考えれば、これは簡単に理解できることです。
技術の身体性とは、例えば飛行機に対する鳥、自動車に対する馬車、電話に対する糸電話、電子メールに対する手紙のように、目の前に出現した新しい技術に対して私たちは、自分の身近にあるモノを通して理解し、その技術を自分の身体の中に受け入れ、取り込むことができる、このことを技術の身体性と言います。
(中略)
先に引用した記事の、日本の「ものづくり」を支えてきた技術者たちも、繰り返しこのベニヤ板のダイナブックの試作を通して、新しい技術を自分たちの技術としてものにしていったに違いありません。すなわち技術の「逆進」とは、技術をより身体に近づける活動に他ならないと言うことであります。
しかしこの「逆進」がうまくいかなくなってきた。
(中略)
この「逆進」がうまく機能しなくなった理由も簡単です。ソフトウェアと言う技術の「逆進」とは、技術を身体性に近づけることを通り越して、身体性そのもの、すなわち身体化を意味しているからであり、身辺にあるモノを通して理解することは、もはや原理的に不可能になってしまったからです。
言わば、モノの技術の「逆進」が身体性といかに近づくかと言う距離空間問題であるのに対して、ソフトウェア技術の「逆進」は、過去の思考体験と言う身体内部における時間空間への「逆行」と言えるわけです。
(逆進する技術、逆行する身体)
それではなぜ、これが日本においては「ソフトウェアの軽視」に繋がるのか。
その理由もまた、すでにここで論じてきたことであるのであります。
ここで取り上げた「情報爆発」の主役こそ、「ソフトウェア」そのものであります。と、いきなり結論でありますが、その直接の原因は、21世紀社会の「情報爆発」であり、これに対する人類の「防衛反応」であります。
(中略)
一方この「情報爆発」の主役であるアメリカを中心とした欧米社会はと言うと、彼らの「思考のフレーム」には最初からこの「情報爆発」を処理する「枠」が含まれていた。それがYAHOO!の情報インデックス化と、Googleのすべての情報を整理しつくすと言う野望であり、これまで目に見えない不可知とされてきた私たちの人間関係でさえ、Facebookはこれを白日のもとに「整理」しようとするのであります。(中略)
なぜ彼らの「思考のフレーム」がそうであったのかは、「キリスト教文化」が強く影響しているとだけ申し上げて、これは別の機会にご説明するとして、肝心要のわが「日本」はいったいぜんたいどうなっているのか。
(バカはいかに思考するのか)
これを理解し「処理」する「枠」として、欧米社会には「キリスト教文化」があり、日本にはこれがなかった。つまりは、こう言うことであります。
と、これでお仕舞いではわけわかめでありましょうから、もう少し、丁寧にご説明するのであります。
ここで言う「キリスト教文化」とは、言ってしまえば「聖書」であります。
欧米社会においては、この「聖書」と言う、具体的な「言語」で書かれた「規範」を、人々は共有していたのであります。
この「規範」こそが、彼らの「ソフトウェアの身体化」を容易にしている、きわめて重要な要因となっていたと言うことであります。
これに対して、日本人には、「言語」で書かれた共有する「規範」がない。
しかたがないので日本人は何をしたかと言えば、「規範」を「建築物」と言う目に見える「モノ」に求めたのであります。あるいは一般の人々は「テレビ」の中の目に見える映像に「規範」を求めたのであります。
でありますから、ソフトウェアの開発スタイルも、「建築物」と同じ手法しかとることができないし、「アジャイル」に至っては理解にすら及ばないのであります。(現に実施しているではないかと反論されるかもしれませんが、この手法を自分たちで開発したわけではない)
この必然的結果として、私たち日本人は、「ソフトウェア」を「規範」である「モノ」の価値の下に置くと言う、最悪の習慣を身につけてしまったと言うことであります。
これが、日本における「ソフトウェアの軽視」の本質だったのであります。
そこで、であります。
はたして、私たちはこれを変革していくことができるのでありましょうか。あるいはまた、日本企業がかつてのように時代を主導していくことは可能なのでありましょうか。
残念ながら、これに対する答えは、否定的としか言わざるを得ないのであります。
上記引用のKAIのエントリーにも書いたとおり、いまや時代は、「貨幣価値」から「アプリケーション価値」へと大きく変革を遂げているのであります。
であるにもかかわらず、なにひとつ変えようとしない社会体制。
これを変革しようとする者には、レベルの低い批判のための批判。
こんな低次元の文言を公にして、この適菜収と言う御仁は、自分で自分を学者と名乗るだけの資格があると思っているのでありましょうか。橋下は文明社会の敵です。
(「ファミコン世代が国を滅ぼす、橋下徹というデマゴーグ」、日本をダメにしたB層の研究【第3回】)
すくなくとも、自分自身は、「人のために」なにをなしているのか、これを表明することが公の場で意見(しかも他人を批判)する者の礼儀ってもんであります。
と言うことで、KAI的には、私たちの社会を「アプリケーション価値」社会へと変えていくヒントがいくつかあるのであります。次回は、これをレポートするのであります。 KAI
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