ロジックとレトリック−−rhetoric vs. logic

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BLOGOSなどに掲載されている、一連の週刊朝日問題に関する記事に寄せられる多くのコメントを読みながら、突然ある「事実」に気が付いた。そして、この「事実」が何を意味しているのか、ここ2、3日考えているうち、これまたこの思いついた「意味」の重大さに、いまKAIはあらためて驚愕するのを禁じえないのであります。(ちょっと大げさだけどね)

それがなんであるのかここでご紹介する前に、表題の「ロジックとレトリック」に関して、KAIはこう書いてきたのであります。

この竹中の存在を理由に維新に嫌悪をしめすやからが多いのでありますが、彼らこそこの「言葉の信頼性」に背を向け、「レトリック」と言う「バカの思考過程」に身を投じたかつての民主党投票者であり、彼らに乗じて格差を生んだとして小泉竹中改革を自らの手で潰した現在の自民党なのであります。
(中略)
しかし、「レトリック」こそ「思考」であるとの教育環境で育ってきた朝日記者をはじめとした多くの日本人は、これを「独裁」と決め付ける。彼らの「レトリック」思考(?!)によれば、まず「結論」が先にあって、これに導く論理はすべて「ポピュリズム」であり、「説明不足」となるのであります。
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要するに、橋下徹や竹中平蔵に「憎悪」や「嫌悪」を感じる方々に共通するのが「レトリック」思考であると言うことであります。

しかし、これをもう少し「深く」考察する必要を感じて、いったいなぜ彼らが「憎悪」や「嫌悪」を感じて、そのうえさらにこれがいったいなぜ「レトリック」思考に繋がっていくのか。

今回あらたに発見した「事実」と、その驚愕する「意味」とは、実はこの先に繋がるお話であったのであります。

そして、この発見した「事実」とは。

それは、ホモサピエンスと旧人との間の進化の闘争にも似た、「種」の生存に直結するお話だったのであります。もう少し具体的に申しあげますならば、人類は、今世紀に入って、突然ホモサピエンスから、これを超える第二のホモサピエンスへの進化を開始したのであります。

この原因となったのが、「コンピュータ」。

ホモサピエンスが、第二の脳である「コンピュータ」を獲得することによって、人類史上初めての生物学的「進化」を、突如駆動させたのであります。

この結果、「プログラム」と言う「ロジック」を獲得した「次人類」と、これを獲得しない、いままでどおりの「人類」、つまり「前人類」、この二つに大きく「種」が分化し始めたのであります。

であるからして、女が自らの遺伝子を残すために、徹底して優生指向に走り、またこれを妨げるものを、「本能的」、「無意識的」に排除する行動に専心するのと、まったくもって同種の事象こそ、今回の「憎悪」や「嫌悪」といった心理的動因に対する、フロイト的説明となるのであります。

つまり、反橋下、反竹中を声高に叫ぶ人たちとは、これが論理的、理性的判断とはまったく関係なく、「前人類」である自分たちとはまったく異種となる「次人類」を、感覚的、本能的、動物的に受容することの不可能である人々であったのであります。

そして、この「意味」とは、これが「種」の生き残りをかけた、壮絶かつ凄惨な「戦い」の始まりであったのであり、自分たちの「種」がこの新しく誕生した「種」に支配され、滅ぼされることへの「恐怖」からくる、まさに生死をかけた「戦い」の始まりでもあったのであります。

ぜひとも、この事態を冷静にお考えいただきたいのでありますが、例えばいま、コンピュータのプログラム言語の一つでも書ける方々と、そうではない人々との間の「意識」の違いであります。

前者は、コンピュータとは、制御可能であると思うし、後者は制御できない、ただ従うしかないと思うのであります。

後者の人間は、ですから、できるだけこの状況に取り込まれることを避けようとするのでありますが、それは例えばSNSのように周りの人間がすでに受け入れているものに限ってこれを「安全」なものとして、同化をはたすのであります。

「プログラム」とは、「ロジック」であります。

実は、法律も一種の「プログラム」であり、法論理と言う「ロジック」であります。

ただこういったいままでの「ロジック」は、この恣意的運用が許されていたのであります。

しかし、いまのコンピュータ「プログラム」と言う「ロジック」は、そうはいかない。この新しい「ロジック」は、従来からのロジックとは本質的に異なるものであったのであります。

そして、この新しい「ロジック」と言うDNA、遺伝子を獲得したのが「次人類」であり、これが、橋下であり、竹中であったのであります。

新しい「ロジック」の世界で生きているものからすれば、テレビ番組に出演して意見を言う竹中平蔵と、他の出演者の発言との間には、くっきり明瞭な、歴然たる「違い」がまことにもって鮮明に見えてくるのでありますが、それが「ロジック」と言うものであります。

橋下徹のツイッターも、まったくもって同様であります。

しかし、「前人類」からすると、これがまったく見えない。

見えるのは、自分たち同様の「レトリック」まみれの「橋下」像。決して「ロジック」をここに彼らが見出すことは一生かかってもありえないのであります。残念ながら、人は、自分たちの「レベル」でしか、他人の「レベル」を評価することはできないのであります。

ここで、ひとつご注意いただきたいのは、たとえば生まれてすぐからスマートフォンやiPadの世界に住んでいる子どもたちのことであります。

この子どもたちが、「次人類」であるかと言えば、これがまったく逆であり、「前人類」そのままであることを認識する必要があるのであります。なぜなら、この彼らや、彼女たちが、決して「プログラム」的思考ができるわけではなく、そもそもにおいて直感的インターフェイスとは、「前人類」が得意な「レトリック」思考そのものであるからであります。

でありますから、「次人類」にとって、この「戦い」は容易ならざるものがあるのであります。

さて、ここで、今回の週刊朝日問題について、あらためて振り返ってみると、週刊朝日や佐野眞一が「DNA」と言う言葉を持ち出してきたのも、あるいは橋下がこれを優生思想であると批判したのも、決してこれは比喩でもなんでもなく、今回の問題の「本質」そのものであったのであります。

はたしてこれは、フィクションで終わってしまうのか、はたまた壮大なるノンフィクションなるものとなるのか。これを決めるのは、あなた。 KAI