「言葉の信頼性」がいかに強力な「武器」であるか、これをまざまざとみせつけた「勝利」であります。
「言葉の信頼性」とは、なんであるのか。朝日新聞出版(東京都中央区築地)は19日夜、「週刊朝日」10月26日号で始まった橋下徹大阪市長に関する連載記事「ハシシタ 奴(やつ)の本性」について、2回目以降の掲載を打ち切ると発表した。
次号で「おわび」を掲載する。
連載打ち切りの理由を巡り、河畠大四・週刊朝日編集長名で、「記事中で同和地区などに関する不適切な記述が複数あり、このまま連載の継続はできないとの最終判断に至りました。橋下市長をはじめとした関係者の皆様に、改めて深くおわび申し上げます。不適切な記述を掲載した全責任は当編集部にあり、再発防止に努めます。連載の中止で、読者の皆様にもご迷惑をおかけすることをおわびします」とのコメントを出した。
親会社の朝日新聞社は19日夜、「当社は、差別や偏見などの人権侵害をなくす報道姿勢を貫いています。当社から2008年に分社化した朝日新聞出版が編集・発行する『週刊朝日』が、連載記事の同和地区などに関する不適切な記述で橋下市長をはじめ、多くの方々にご迷惑をおかけしたことを深刻に受け止めています」との広報部コメントを発表した。
(橋下氏に関する連載、週刊朝日が打ち切り発表、2012年10月19日22時42分 読売新聞)
今回は、この徹底解説であります。
このシリーズ「パート5」で初めて、この「言葉の信頼性」を言い出したわけでありますが、ここにきてこれがより「鮮明」になりだした結果であります。維新と言う「革命政権」の本質は、「言葉の信頼性」であります。
日本の100年有余の政党政治において、橋下徹の「革命政権」によって歴史上初めて「言葉の信頼性」を担保する政権が誕生する。
これが、維新を支持する人たちの真実の心であります。
この「心の炎」は、なにがあろうとも決して消えることはないのであります。
(情報戦とは−−孫子の兵法応用編・パート5)
そもそも橋下徹に対する「出自」攻撃は、昨年(2011)10月、新潮、文春が時をはかったかのように一斉にキャンペーンを開始したのであります。
この一連のネガティブキャンペーンに対する、橋下徹のツイッターによるコメントが上記引用記事にあるので、ぜひお読みいただきたいのであります。両誌共に読みましたが、「ハシゲはブラク、親父はヨゴレでジサツ、叔父貴もヨゴレ、従兄弟は金属バットでヒトゴロシ」と、アンパンマンやウンコチンチンなネタが大好きな子供たちが喜びそうな内容で、「だからなんだ?」という肝要な結論部分をあっさり読者の手に委ねるという芸術映画の様な記事でグイグイ惹き込まれますし、橋下徹さん好き嫌い以前の話として、人権守護特殊団体さんが手を叩いて喜びそうな新たな人権侵犯事案提供に感涙を禁じえませんし、橋下さんの出自も大事ですがそれより何故に新潮・文春両誌が同じタイミングで新潮45の「差別専門ルポライター上原善広さん」記事の後追い書かざるを得ないのか、その辺の理由や因果関係の背景が非常に興味津々な案件であります。
(週刊新潮・文春の「橋下徹・出自報道」に対し本人がツイッターでコメント)
そして1年たって、まったく同じネタで話を蒸し返したのが週刊朝日。これにまたしても橋下徹は、ツイッターで反撃する。
ところがであります。朝日新聞は血脈主義、身分制度を前提にするのかどうかということ。これは優生思想、民族浄化思想にもつながる極めて危険な思想だ - 2012年10月18日のツイート
今回は、この展開を、問題の張本人である佐野眞一は、記事の中でこう予測していたのであります。
みなさまには、ぜひともお気づきいただきたいのでありますが、今回の「事例」とは、かつてのメディアとの戦いがごとく、一方的メディアの権力に屈するのではなく、対等にメディア以上の力で反撃した、歴史上かつてない、これがまったくもって初めての出来事になったと言う、厳然たる事実であります。オレの身元調査までするのか。橋下はそう言って、自分に刃向かう者と見るや生来の攻撃的な本性をむき出しにするかもしれない。そして、いつもの通りツイッターで口汚い言葉を連発しながら、聞き分けのない幼児のようにわめき散らすかもしれない。
だが、平成の坂本龍馬を気取って“維新八策”なるマニュフェストを掲げ、この国の将来の舵取りをしようとする男に、それくらい調べられる覚悟がなければ、そもそも総理を目指そうとすること自体笑止千万である。
(週刊朝日は謝罪すべきではなかったし、連載を続けるべきだった)
これを、佐野眞一は、「いつもの通りツイッターで口汚い言葉を連発しながら、聞き分けのない幼児のようにわめき散らすかもしれない」と、過小評価していたのであります。
そして、今回もまた、これを、識者と言われる方々は、「差別問題」と言う個別の問題に矮小化するのでありますが、佐野眞一同様に彼らには、歴史上いまなにが起こっているのか、かなしく、そして哀れなほどまでに、これを理解する能力に欠けているのであります。
「差別問題」など、これにまったくもって関係ないのであります。
「差別問題」以外でも、これから、たびたび、メディアと言う権力が「敗北」を喫する事例が、頻出するのであります。
なぜか。
それは、メディアが「言葉の信頼性」を疎かにするからであります。
これが、メディアの、「言葉の信頼性」に対する「認識」であります。ツイッターで口汚い言葉を連発
彼らにとって、ツイッターによる「議論」などあり得ない。ツイッターに書かれる言葉は、すべて「感情」との認識であります。
ところがどっこい、そうではない。
すでに、いくつも引用した橋下徹のツイッターをお読みいただければ、ことごとくにおいて、これが「明晰」なる論理で貫かれていることがわかるのであります。
これに対する、メディアと言う「権力」はどうか。
もちろん、彼らが、ツイッターで反論することもなければ、記者会見の場に出て正々堂々と「議論」に応ずることもない。せいぜいがゴミブロガーに、キャンキャンと吠えさせるだけ。まともな「論争」記事の一つも、いまだかつて書いたためしがないのであります。
これで「言葉の信頼性」を、築けるわけがないのであります。
すなわち、これが何を意味しているのか。
この本質を、みなさんは徹底して理解する必要があるのであります。
そして、それは、「言葉の信頼性」とは、その言葉の「コンテンツ」の「信頼性」ではなく、「言葉」による議論と言う「プロセス」としての「信頼性」以外の、何者でもない、つまりはそう言うことだったのであります。
であるからして、今回日本維新に参加した、数人の国会議員もそうであります。
まったくもって、彼らの中にこれをわかっている者は、一人としていないのでありますが、彼らにとって、この「言葉の信頼性」がいかに重要なる意味を持つのか、これから何度も何度も身をもって思い知らされることになるのであります。
でありますから、「レトリック」に代表される、「言葉の信頼性」ではない、「憎悪」や「嫌悪」に支配された人々にとって、せいぜいがBLOGOSやゴミ週刊誌に載せる三文記事が、まことにお似合いと言うわけであります。
勝負あったり。
と言うことであります。 KAI