いまさらiPhoneが、ポータブルコンピュータだと再評価されているようでありますが、こんなこと発売前からわかっていたことであります。
多くの方々が、番号ボタンのないiPhoneはたいして売れないとしたり顔にブログに書いておられたのでありますが、いまや時代はiPhoneモード一色であります。やっとジョブズの頭の中が見えてきた。ジョブズにとってiPhoneは、MACの再来だったんだ!
Satoshiさんのエントリースティーブ・ジョブズの面接試験、iPhone編の中のサンディエゴ無頼さんのコメントを読んで、やっとわかった。
今回ジョブズにとってケータイ、すなわち電話は、実はまったくもって、目玉でもなんでもなかったんだってことが、やっとわかった^^;。
iPhoneの真の目的は、何か。
それは、モバイルマックを創ること。
そして、それに気付かせないために社名からコンピューターを外し、モバイルマックからコンピューターの「ニオイ」を、きわめて巧妙に消し去ったのです。
そしてそして、このモバイルマック(MM)の目的は何か。
これはきわめて明確です。
このMMさえ持っていれば、すべてのM(モバイル)が実現するってことです。
すなわちPSPでありDSにもなるってことです。
居間にあるリモコンにも、哀しいけど。
そのすべてのザ・モバイルの座(ちょっとダジャレ^^;)に、ジョブズは明確な楔(くさび)を、iPhoneで打ち込んだのは、(発売前ですが)間違いありません。 KAI
(ジョブズのクサビ、January 13, 2007)
なぜ、こうなったのか?
今回は、これを考察するのであります。
これは経営トップの「美意識」の違いであると、shi3zくんは主張する。さて、iPhoneと日本古来のケータイ電話の違いというものを理解するためにかなりの遠回りになってしまった。
しかし突き詰めれば突き詰めるほど、これは言語化ができない違いなのだという事実になんどもぶち当たって行く。しかし、日本の会社がカッコいい携帯電話を発売できない理由はなにか、という問いに関してはひとつ明確な答えが言えるようになってきた。
それは経営トップの美意識の低さだ。
たいていのトップは「デザイン」を洋服のようなものだと思っている。
それは正解のように見えるが、完全な間違いだ。日本を含め、世界の製造業の多くの経営者は、外装のデザインを「単なる箱」としか思っていない。
だから「箱だけデザインすればいい」という発想でプロダクトデザイナーを雇う。コンピュータに関しては、アップルだけが経営トップに明確な美意識があった。
経営層が確固たる美意識を持っていないから、アップル以外のメーカーはアップルの後追いしか出来ない。昔はソニーがそれを出来た。
(デザイン、ファーストクラス、クオリア、ゲーテ14)
この主張に対して、岩崎夏海氏は、「iPhoneのデザインが人を引きつける理由を感覚的にではなく論理的に説明する」と称して次のように書いている。
shi3zくんの主張はともかくとして、この岩崎夏海氏の説明では、なぜ人々がiPhone発売前に見たこともない「モノ」のために行列を作ってまで買い求めたのか?、なぜiPhoneよりAndroidフォンの方が売れているのか?、これらの疑問になにひとつ答えてはいないのであります。デザインのクオリアの正体をまとめると、以下のようになる。
(iPhoneのデザインが人を引きつける理由を感覚的にではなく論理的に説明する)1.「人間の本能的な欲求を理解する」
人間の本能に根ざした欲求を知る(例「子育ての時の子供のように変化するものが好き」「暗い道を見るとそこを抜けて明るい場所へ出たいと思う」)
2.「無意識へ訴えかける」
それを、無意識のレベルに訴えかけ「サブリミナル効果」を演出する(例:微妙な視覚に訴えたり、視覚や聴覚以外の感覚(嗅覚、味覚、触覚)に訴えかける)
3.「静的な要素と動的な要素を連携させる」
静的な要素と動的な要素のコラボレーションを意識した演出を施す
4.「期待に応える」
無意識のレベルに芽生えた期待に応え、「報酬」を演出し、さらなる愛着を湧かせる
そこで、であります。
これらの疑問に答えるために、いま私たちの「日常」にとって当たり前の存在となった「パソコン」、すなわち「コンピュータ」の存在について考えてみるのであります。
KAIの世代のように、「パソコン」誕生に立ち会った者からしますと、これが「存在」しない時代と「存在」している時代とは、互いにまるで別世界だったのであります。
ですからいまの多くのみなさんのように、物心付いたころにはすでにその「存在」が当たり前であった若い人たちにとって、これが「存在」しないことを想像することは、あえて言えば「不可能」とさえ言える、そう言う「存在」が「コンピュータ」なんであります。
このことの「意味」を理解するには、例えば「テレビ」や「車」といったものの「存在」を考えてみるとよくわかるのであります。
これらも、日常当たり前に「存在」するものでありますが、これらの「存在」を積極的に否定する、つまり、「テレビ」は持たないし決して見ない、あるいは「車」は所有も運転もしないし、利用もしないと、こういった方々でない限り、「テレビ」や「車」の「存在」は、空気のように「存在」そのものが「意識」されることがないのであります。
ついこのあいだまで「パソコン」も、同様であったのであります。
以上のような背景のなかで、2007年、iPhoneは発売された。
「存在」の「誕生」であります。
冒頭、KAIが申しあげたとおりであります。モバイルマック、ザ・モバイル、モバイルコンピュータと言う「存在」が「誕生」した瞬間であります。
人々は、赤子の「誕生」と同じように、期待に胸を膨らませたのであります。それにジョブズは見事に応えた。
いままでの「パソコン」とはまったく異質とも言うべき、ユーザーイクスペリエンスを持つ「コンピュータ」。これを、彼は生み出したのであります。
Androidが、これをコピーして、続いた。かくして、世界中、「スマートフォン」と呼ばれる「モバイルコンピュータ」一色とあいなったのであります。
では、ジョブズが生み出した「ユーザーイクスペリエンス」とは、いったいなんであるのか。
次なるテーマであります。
それは、「触覚」、「肌感覚」であったのであります。
「モバイル」とは、つねにユーザーに密着して「存在」するのであります。
このためには、「ボタン」でもなく、「ペン」や「マウス」でもない、「タッチ」と言う「触覚」である必要があったのであります。
これがアプリケーションのあり方を一変させてしまった。すべてを「直感的」操作に変えてしまったのであります。
すべてのアプリケーションが、ユーザーを「触覚」で「感じさせる」ことができるようになったのであります。逆に言えば、「感じさせる」ことが、アプリケーションの本質へと変化したのであります。
この「感じさせる」コンピュータと対極にあるのが、「考えさせる」コンピュータであります。
しかし、残念ながら、いまのいまこれを実現しているアプリケーションは、ごくわずかであります。
もちろん、KAIが生涯を懸け開発してきたアプリケーションも、この「考えさせる」アプリケーションであります。
この「考えさせる」アプリケーションが、いかなるものか、定型業務にしか興味のない女性たちにはこれがいかに不評か、これについては稿を改めてお伝えすることにして、最後に、「触覚」で「感じさせる」ことの本質を浮き彫りにする記事をご紹介するのであります。
正子とは、このシマジ対談の相手、白洲信哉氏の祖父、次郎の妻であります。白洲 正子が凄いのは、最晩年、家にあった高価な陶器類をたくさん売り払って、とても珍しい、超高価な李朝の徳利を買ったときのことです。シマジさん、それをどこに置いていたと思いますか?
シマジ たぶん、その徳利を抱いて一緒に寝ていたんじゃないですか?
白洲 ご名答。よくわかりましたね。いままで、そこまで的確に当てた人はいません。シマジさん1人です。
立木 白洲正子とはレベルが違うが、浪費家同士、通じるものがあるんじゃないか。
(白洲信哉 第3回 「あの生暖かい感触が忘れられない---祖母・白洲正子がベッドのなかから取り出した徳利」)
この正子が、抱いて寝た「徳利」こそ、究極のiPhoneアプリケーションであります。
この意味を、shi3zくんなら、「激しく」わかると、KAIはそう思うのであります。
「美意識」の本質は、「触覚」にあるのであります。
私たちは、いまようやくにして、究極の「徳利」を手に入れたのであります。 KAI