書評の神様−−文章の力とは?

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まずは、これをお読みいただきたいのであります。

■めくるめく想像超える展開

 子供の頃、祖母に連れられて行った近所の寺、昔の造りの本堂の高い縁側の床下は子供にとって、大人とは視線の違う空間で、地面が細かい砂地になっていた。そこをじっと見つめていると、小さな窪(くぼ)みがあった。それが蟻(あり)地獄なのだということが解(わか)るのはもう少し大きくなってからだった。その蟻地獄がやがてウスバカゲロウに変わることを知るのは、もっと後のこと。

 私の所属するお笑いの事務所はいつの間にやらタレントが千人を超える会社になってしまった。これだけ多くの人材が居ると、笑いのみならず、中にはボクシングでオリンピックに出ようとする人や、絵で有名になる人、映画監督をする人、さまざまな人が居る。そんな中、小説を書く人も出てきた。

 今回、紹介する『蟻地獄』の著者は、板倉俊之君だ。前回の初出版書き下ろし小説『トリガー』に続いて、またまた長編書き下ろし小説だ。

 彼はいつも楽屋で他の連中がわいわいと騒いでる中、冷静な目差(まなざ)しでおとなしい。ところが、ひとたび舞台に出ればシュールなコントをくり広げるインパルスの板倉俊之君。彼は自分たちの演ずるコントを自ら書き、相方の堤下(つつみした)敦君とともに、他の追随を許さない爆笑ワールドへ私を誘ってくれる、いわば私好みの笑いの世界。その彼が、今回も実に面白い小説を書いてくれた。
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 裏カジノでイカサマがバレてしまい、5日後の6時23分までに金をつくれ!と命じられる。で、それができないなら人質にした友の命は無い、さあこれから、まさに蟻地獄の始まりだった。めくるめく想像を超える展開が、スピード感があって面白く、コントで鍛えたセンスも光る。

 著者は言う、「普通の人」が「自殺志願者」や「殺人者」にならない理由は一つしかない、それは…。読んでのお楽しみ。(リトルモア・1785円)
落語家・桂文珍、『蟻地獄』板倉俊之著

いかがでしょう?

小説と言う「つくりごと」には、端から興味のないKAIでさえ、思わず買って読んでみたいと思わせる、実に「うまい」書評なんであります。

この、食欲ならぬ読書欲を過剰に刺激するのは、落語家・桂文珍が書く「文章の力」と言うものなんでありますが、では具体的にこの「文章の力」とはなんなのか、こう訊かれると、これがまたなかなかうまく説明できないのであります。

そんなことを考えているとき、なぜかたまたままた面白い文章に出会うのであります。

 その晩年を田村秋子は、君津の高級老人ホーム『芙蓉ミオ・ファミリア』で過ごした。
この時期の田村の消息は、『綴方教室』で一世を風靡した豊田正子が詳しい。

 正子はプロレタリア文学者として識られた男から手ひどい仕打ちを受けた折、秋子に助けられ、爾後秋子を慕うようになった。

 秋子は、いつもふんだんに「いい紙」を用意していた、と正子は云う。

「あたし、紙だけは沢山ないと、気がおちつかないのです。悪い紙はいや。これにはわけがあるんですよ。あたしが舞台を退いた当時、いろいろな集まりの席で、よく里見(紝)先生とご一緒しました。するとね、かえりぎわになると、里見先生はあたしの手を握って、舞台に戻ってくれってお泣きになるの。その度にあたし、つらくてこちらも泣きたくなるんですけど、涙をふく時先生は、質の悪い紙でお拭きになるから、その紙がちぎれましてね、顔じゅう紙屑がへばりついて、目もあてられないことになるんです」(『花の別れ 田村秋子とわたし』)

 だから自分は、質のいい紙を常備しているのだ、というのが秋子の云い分だった。
セリフのうまさが抜群だった--- 今なお「アウラ」を発する名女優 女優の近代Vol.6

なるほど。情景が浮かぶとは、このことであります。

しかも、であります。これは、単に「情景」が浮かぶだけではないのであります。

「いい紙」と「悪い紙」と言う「小道具」を使うことによって、登場人物の「心の機微」までをも、目の前で実際に目撃しているかのように鮮明に浮かびあがらせることができるのであります。

そして、この、「悪い紙」の紙屑が涙でぬれて顔に張り付いている光景に、なにか切ないものを胸に感じてしまうのは、決してKAIだけではないはずであります。

この「感情」が、どこからくるのかと考えれば、里見先生に対する秋子の「感情」であり、これとこれを読む者との感情が一体化し、共鳴するからであります。

この「関係性」は、桂文珍の冒頭の「書評」の中にも、なんども現われるのであります。

それは、子どもである桂文珍と祖母との関係、「蟻地獄」の著者、板倉俊之と桂文珍の関係、そして、この小説の中の、人質となった友と主人公の関係、であります。

さらに、最後に、「普通の人」と「殺人者」の関係になぞかけして、「読んでのお楽しみ」とくれば、もうこれは買いに走らないわけにはいかないのであります。

さすが、噺家であります。

「感情」なるものと無縁と思しき「情報」のなかで格闘しているKAIにとって、いかに「心」を伝えるか。学ぶべきこと、大なりであります。 KAI