「正統性」思想とは−−日本国憲法の正統性問題

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さて、今回は、「日本国憲法」であります。

なぜ、いまここで「日本国憲法」が問題となるのか。まずこのお話から始めるとするのであります。

以前、「対米従属批判」について議論したのでありますが、この議論から見えてきたことは、いまのいま日本と言う国家が直面する政治的、経済的、社会的困難の大本にあるのが「官僚機構」をおいて他にないと言う、厳然たる事実であります。

これは、個々の官僚と言う「個人」レベルの話とはまったくもって異なるレベルのお話であり、「官僚機構」のお話とは、つまるところ国家体制を既定する「日本国憲法」それ自体の問題であり、この問題の議論にたどり着くのであります。

とは言え、これは「官僚機構」の問題を解決するために「憲法改正」が必要であるなどとする短絡的議論では、もちろんないのであります。(たとえ何年かのちに「憲法改正」が実現したとしても「官僚機構」の問題は微動だにしないとKAIは思うのでありますが)

そうではなく、今回やろうとする議論とは、「官僚機構」による「支配なき被支配体制」を支える「対米従属批判」の典型、「日本国憲法」は米国の押し付け論の見直しであります。これによって、「日本国憲法」が本来持っていた「正統性」を取り戻すとともに、換わりに「支配なき被支配体制」から偽りの「正統性」を奪い去ることを目的とするのであります。

こんなことを、ずっと考えていたら、なんとまあ、またしてもシンクロニシティ。

 (中略)
 貫太郎について語ればキリがない。ここらでやめるけど、「昭和の三傑」の一番目は鈴木貫太郎というわけよ。

シマジ 二番目が幣原喜重郎(引用者注・しではらきじゅうろう)ですか。
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 そう。この幣原も「軟弱外交」の代名詞として汚名を着せられている。ところがこの幣原が「太平洋のシーザー」を自称する占領総督マッカーサーを相手に一世一代の大芝居を打つんだ。

 喉が渇いた。何か呑ませてくれ。

 立ちゃん、日本国憲法の第9条、あれはアメリカから押しつけられたものだと思う?

立木 普通の人はあれはイヤイヤ押しつけられたと思っているでしょう。

 それにオレは異を唱えたんだ。なるほど憲法は全体としてアメリカに押しつけられたけど、憲法9条だけは違う。日本側から、幣原から言い出したんだ。

瀬尾 凄い仮説ですよね。

 いや仮説ではなく真実だと、おれは確信している。だって史料を眼光紙背に徹して読めば、そうなる。

シマジ マッカーサーとやり合うとき、幣原が名うての英語使いであったのがよかったですよね。しかも凄い教養人だった。

 マッカーサーは、シェークスピアを縦横に引く幣原の英語に舌を巻いたほどだ。幣原の大仕事は2つある。1つは天皇の「人間宣言」、もう1つは世界初の「戦力放棄」を新憲法に謳うことだ。言うなら日本の国の大柱2本を建て替える。幣原は73歳、老骨にムチ打ち、不退転の決意で智略の限りを尽くした。憲法に「戦争放棄」を謳っている国々はたくさんある。珍しくもない。第二項にいう「戦力放棄」は世界初のビックリ条項だ。

シマジ 言ってみれば、「戦争放棄」とはチンチンは持ってるが女と寝ませんということで、「戦力放棄」はチンチンもチョン切りますってことですよね。

 いかにもシマちゃんらしい表現だが、まあ、そういうことだ。

瀬尾 マッカーサーも驚いたでしょうね。日本の国がチンチンまで斬って差し出してきたんですからね。

 腰が抜けるほど驚いたと、回想録に書いていますよ。なにしろヤツは軍人だからね。一国が戦力を一切放棄するってんだからビックリするのも当然だ。

瀬尾 このお陰でわが国は戦後早い復興が出来て、若者が朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かず、1人も戦死しなかったんですよね。

 そのとおり。勝った国が負けた国の戦力を使うのは世界史の常だ。日本の場合も、アメリカの圧力をモロに受けて、徴兵制か志願制かはともかく、若者が駆り出される可能性があったんだ。アメリカがそう出来なかったのは、憲法9条を楯に使ったからだ。

 アメリカは民主主義を標榜する以上、憲法に反することは強要できない。韓国、フィリピン、タイからベトナム戦争に兵隊が駆り出された。韓国なんて精鋭のタイガー師団5万人をベトナムに派遣させられて、タイガーぶりを発揮したために、いまだにベトナム人から恨みをかっている。

 日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも、一兵も出さない。吉田茂が憲法9条を楯に頑張ったからだ。再軍備をせまるアメリカの国務省長官ダレスを向こうにまわして、のらりくらりと要求に応じない。結果、警察予備隊は作らされたけど、ひたすら経済立国・軽武装国家に終始した。憲法9条というのは、いうなら擬態なんだよ。生物は危機に瀕すると死んだふりしたり体の色を変えたりする。国家も生命体なんだ。降伏した日本を、さらにどうやっていたぶってやろうかと、戦勝国はてぐすね引いている。
堤堯 第3回「いよいよ話題は救国の政治家・鈴木貫太郎へ・・・でも、その前に賭けゴルフの名勝負を一席」

いかがでしょうか?

KAIはこれを読んで、まさに溜飲おろすがごとくであったのであります。

日本国憲法の第9条。これを変えるべしと主張する人々も、そのままにすべきだとする人々も、ともに共有する必要がありますのは、この9条が、私たち日本人の「意志」によるものであったと言う「真実」であります。これを言う堤堯(つつみぎょう)とは、『文藝春秋』元編集長。発言の信憑性はそれなりに保証されていると思うのであります。

「正統性」思想にとって、この日本人による「意志」がきわめて重要なキーワードとなるのであります。

それは、すなわちたとえ9条と言う一部だけであっても、日本国憲法の「正統性」を保証することになるからであります。堤の言うとおり、戦後「日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも、一兵も出さない」ことを貫くことができたことからも裏付けられているのであります。

これにたいして、憲法の正統性を否定し、「憲法の破棄」を唱えるのが、石原慎太郎。

 それは憲法改正などという迂遠(うえん)な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない。

 敗戦まで続いていた明治憲法の七十三条、七十五条からしても占領軍が占領のための手立てとして押しつけた現憲法が無効なことは、美濃部達吉や清瀬一郎、そして共産党の野坂参三までが唱えていた。

 思い返してみるがいい、敗戦の後占領支配された国家で、占領支配による有効な国家解体の手立てとして一方的に押しつけられた憲法なるものが独立を取り戻した後にも正統性を持つ訳がどこにあるのだろうか。前文からして醜く誤った日本語でつづられた法律が、自主性を取り戻した国家においても通用するといった事例は人間の歴史の中でどこにも見当たらない。「破棄」という言葉はとげとげしく感じられもしようが、要するに履きにくくなって靴ずれを起こす古い靴を捨てるのと同じことだ。
【日本よ】石原慎太郎 歴史的に無効な憲法の破棄を

なるほど、「破棄」とは良いアイデアであります。良いアイデアではありますけれども、現政権の「正統性」を保証するいまの憲法を「破棄」できるかどうか、当然現憲法に規定があるわけではなく、かといってあらたな新憲法の「正統性」はなんら担保されているわけではないからして、司法的にだれにもこの「超法規的判断」はできない。

つまり、「破棄」することはできないってことであります。

より現実的なのは、いままでどおりの「憲法改正」。産経新聞が憲法起草委員会を立ち上げたと言う。

 ■9条、天皇…不明確な規定が誤解招く

 現行憲法をめぐり、さまざまな欠陥が指摘されている。

 最大の欠陥は「戦争の放棄」を定めた9条の規定だ。普通の主権国家が持っている軍隊の保有を禁じている。

 国民の生命や財産を守ることが国家の一義的な使命にもかかわらず、「国際平和を誠実に希求」するだけで、無防備、無抵抗の国家であるかのような錯覚さえ抱かせる。

 自衛隊が自衛のための「戦力」か「実力組織」かも明確ではない。同盟国が攻撃を受けた場合の集団的自衛権についても、政府は「行使できない」として、自衛隊の行動を縛ってきた。

 国際貢献においても9条は足かせとなっている。カンボジア初の民主選挙が行われた平成4年、国連平和維持活動(PKO)協力法により、自衛隊がカンボジアに派遣されたが、武器使用は正当防衛などの場合に限定された。

 15年末からイラク特措法により、自衛隊がイラクにも派遣された際、同じように武器使用を厳しく制限された。

 中国の軍拡と北朝鮮の核開発が深刻な脅威となっているにもかかわらず、前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することをうたっている。
現行憲法、多くの不備

 天皇に関する条文についても「国民統合の象徴」とはどう定義されるのか、が明確でない。日本を代表する国家元首なのか、そうでないのかが、条文に定められていないからだ。

 昭和天皇崩御の際、当時の竹下登内閣は憲法20条の政教分離規定を厳格に解釈し、ご大喪を皇室行事の「葬場殿の儀」と国の儀式としての「大喪の礼」にわけて行い、日本の伝統を軽視した行為と批判された。政教分離と伝統行事の関係が不明確だからだ。

 家族の規定がないことも現行憲法の欠陥である。戦後、行きすぎた個人主義が広がり、少年犯罪の凶悪化などを招いているとの指摘もある。

 権利と義務のバランスも失している。権利に関する規定は第10条から第40条まで並ぶが、義務に関しては3カ条のみ。憲法は「公権力の行使を制限するために主権者が定める根本規範」という理念が強調されすぎているためだ。しかし、憲法は古来の歴史や伝統などを踏まえた、国のありようを体現する根本法規という側面も持つ。

 このほか、現行憲法には非常時対処への規定が著しく不備であることや極めて改正が困難である点など問題点が山積している。
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現行憲法の主な問題点

確かに議論は必要なことと思うのでありますが、みなさんにはここでお考えいただきたいのであります。

もし、ここで指摘されている現行憲法の問題点がすべて正されたとして、これが何年あとかは知りませんが、果たしてこれが根本的な政治的、社会的問題の解決に繋がるかどうかであります。

(・・・考え中・・・)

どうでしょう?

いままでと、なんにも変わらないのではないでしょうか?

確かに、上記引用の記事の中で指摘されている問題は解決するかもしれません。しかしこれらは、決して、いまの日本をおおう「根本的な政治的、社会的問題」の中心ではないのであります。

この問題の「中心」とは、これがかの「支配なき被支配体制」なんでありますが、この認識こそがいまのいま私たちには最も重要であると、KAIは考えるわけであります。

つまり、これを打ち破るにはどうすればいいかと。

これが、すなわち「現憲法」の「正統性」を認めることから始まる。こう認識するわけであります。

これは、別に「憲法改正」が必要ないと申しあげているわけでもなんでもないのであります。

単に、「現憲法」に「正統性」がないから「憲法改正」が必要である、とは言わないでいただきたいのであります。そうではなく、「現憲法」には「正統性」があるからこそ、なおいっそうの「憲法改正」が必要である、こうお考えいただきたいのであります。

これで何が変わるのでありましょうか?

それは、現在の問題が対米従属からとも現憲法からともまったく関係ないところにあるとの認識に、みなさんが決定的に目覚めることなんであります。覚醒することなんであります。

ここで初めて「戦線が統一」されるのであります。

「アラブの春」ならぬ、「日本の夜明け」の「戦線統一」であります。

戦うべき相手は、対米従属でも、日本国憲法でも、民主党でも、まったくなく、それは「官僚機構」であると言うことであります。この「きっかけ」こそが、日本国憲法の「正統性」認識にあると、KAIは考えるのであります。 KAI