ビジネスにおける「正統性」とは、実は単純なんであります。それは、消費者に支持され、成長していくことこそ、そのビジネスの「正統性」の証となるのであります。
と言いながら、お話はそんな簡単なものではないのも、事実であります。
つまり、「成長」とはあくまで「正統性」の結果であります。「成長」企業であるからしてそのビジネスに「正統性」がある、あるいは「成長」していないから「正統性」がないとは、必ずしもそうは言えないのであります。
それは、すなわち、ビジネスにおける「正統性」とは、その売上規模や社員数といった企業の外形的なものにあるのではなく、その企業が果たす社会的役割といった、ビジネスが「目的」とするものの中にこそ、その「正統性」の本質があるからであります。
そして、この「正統性」こそが、そのビジネスの「生存」と「成長」の「根拠」となり、そのビジネス自体の「フォース」を賦与することになるのであります。
このことの真髄を理解するためには、この一番の好例、かの「クロネコヤマトの宅急便」、小倉昌男の、ヤマト運輸の経営を知る必要があるのであります。
2代目社長となった小倉は、社内の強固な反対を粘り強く押しのけ、宅急便事業をスタートさせます。しかし、この前に立ちはだかったのが、当時の運輸省。今や私たちの生活に欠かせない宅急便。その宅急便を創始したのが小倉昌男だ。父の創業した大和運輸(現ヤマト運輸)が経営危機にさらされた時、小倉は宅急便を考案した。宅急便のスタートには、役員が全員反対。しかし、小倉は「宅急便は絶対に儲かる」と確信していた。そして自分の信念を貫き通した。
(「宅急便」の生みの親 ヤマト運輸株式会社 元会長 小倉昌男)
この運輸省を突き崩したのは、世論など一切味方しない中で戦った小倉昌男の「意志」以外の何者でもなかったのであります。さらりと「与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理でないか」と言う。「倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいい」と国家の向こうを端然と見ている。その中心に「心」というものがある。心というものを持てば、国家なんぞ怖いものでもなんでもないよと見切っている。ヤマト運輸は、監督官庁に楯突いてよく平気でしたね、と言う人がいる。別に楯突いた気持ちはない。正しいと思うことをしただけである。あえて言うならば、運輸省がヤマト運輸のやることに楯突いたのである。不当な処置を受けたら裁判所に申し出て是正を求めるのは当然で、変わったことをした意識はまったくない。
幸いにしてヤマト運輸はつぶれずにすんだ。しかし、役人のせいで、宅急便の全国展開が少なくとも五年は遅れている。規制行政がすでに時代遅れになっていることすら認識できない運輸省の役人の頭の悪さにはあきれるばかりであったが、何より申請事案を五年も六年も放っておいて心の痛まないことのほうが許せなかった。与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理でないか。倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいいのである。
([書評]小倉昌男 経営学(小倉昌男))
その小倉の「意志」とは、すべては消費者のためなどといった「偽善的」行動ではなく、「ネットワーク」の「本質」とはなんであるのかを見据えた上での、これを実現することを「貫徹」する、そう言う確固たる「意志」であったのであります。さらりと「品性」が語られる。さらりと語られるなかにマックス・ヴェーバーの社会哲学の神髄は語り尽くされている。私は、役人とは国民の利便を増進するために仕事をするものだと思っている。だから宅急便のネットワークを広げるために免許申請をしたとき、既存業者の利権を守るために拒否されたのは、芯から腹が立った。需給を調整するため免許を与えるどうかを決めるのは、役人の裁量権だという。では需給はどうかと聞いても資料も何も持っていない。行政指導をするための手段にすぎない許認可の権限を持つことが目的と化し、それを手放さないことに汲々としている役人の存在は、矮小としか言いようがないのである。
すべての役人がそうだというわけではないが、権力を行使することに魅力を感じて公務員になる人もいると聞く。何とも品性の落ちる話ではないか。
ヤマト便のビジネスを広げるあたり、小倉さんは淡々と過疎地に営業を広げることを考えていく。
ところが小倉さんは、「しかしよく考えてみると、郡部イコール過疎地、過疎地イコール赤字、という図式があるとは限らない」とまた理詰めで考えていく。ヤマト運輸は民間企業である。無理して郡部の集配をやらなくてもいいのではないか。郡部は郵便局に任せるべきではないか。赤字のところをやるのは官の責任である、という意見にはもっともなところがあった。
宅急便を初めてやろうと決心したとき、清水の舞台から飛び降りる気持ちであった。幸い狙いは当たり、五年で成功のめどがついた。だが次のステップとして郡部にサービスを拡大しようとしたとき、再び清水の舞台から飛び降りる気持ちになった。
そして再び清水の舞台から飛び降りてみせた。成功した。1997年、ヤマト便は全国ネットワークも完成した。つまり、ヤマト運輸はすでにユニバーサルサービス実現しているのである。日本は山が多いから、地方には山奥の過疎地が多いことは否定できない。でも、過疎地から過疎地に行く荷物はほとんどないと思う。過疎地から出てくる荷物は都会に行き、過疎地に着く荷物は都会から来るのがほとんどである。過疎地の集荷や配達はコスト高からもしれないが、一方で、都会の集配車の集積率が高くなりコストが下がることを考えると、過疎地に営業を伸ばしたことによって収益が悪くなるとは考えられないのである。
この「意志」の中にこそ、「正統性」経営、すなわちビジネスの「正統性」があるのであります。
「ネットワーク」とは、いったいなんであるのか。
それは、すべてが「繋がる」ことであります。
小倉は、これをしっかりと理解をし、全身全霊を懸け、実現したのであります。
はっきりと申しあげるならば、これ以外には、ビジネスの「正統性」は、一切ない。つまりはそう言うことなんであります。
この「意志」の存在如何と、そのビジネス、すなわちその企業の存在価値とは、直結しているのであります。企業が、これを見失ってしまっては、たちまちにして即刻退場を余儀なくされるのであります。
そして、この「意志」の喪失をもっとも敏感に感じとることができるのが、社員として「意志」なるものの実現に最前線で奮闘してきた人たちであります。
すでに金儲けのカラクリの中で申しあげましたとおり、金儲けへの世間の目には厳しいものがあるのであります。この中において、「チームワーク、高潔さ、謙虚さ、そして常にクライアントにとって正しいことをする」、金儲けと言う「プライドと信念」の「意志」こそが、143年間のゴールドマン・サックスの歴史を支えてきたのであります。『オキュパイ・ウォールストリート(ウォール街を占拠せよ)』という世界中を巻き込んだ抗議活動は、まだ記憶に新しい。そんな中、ウォール街でトップの投資銀行の一つであるゴールドマン・サックスの欧州デリバティブ部門トップ、グレッグ・スミス(Greg Smith)氏が、3月14日付けのニューヨークタイムズ紙に『私がゴールドマン・サックスを去る理由(Why I Am Leaving Goldman Sachs)』と題して手記を発表した。同投資銀行の組織文化がいかに極度の金儲け主義に陥り、顧客の利益を全く顧みないものになっているかを綴った内容に、全米が一日中騒然となった。
グレッグ・スミス氏は、南アフリカ出身で、奨学金により授業料を全額免除してもらいスタンフォード大学へ進学。学部時代にサマー・インターンとしてゴールドマン・サックスで勤務し、卒業後も同行のニューヨーク・オフィスで10年間、そしてロンドン・オフィスで2年間勤務した。
スミス氏は手記の冒頭で、「ここ(ゴールドマン・サックス)の文化、人、アイデンティティーがいかに変化してきたか理解できるくらい、十分長い期間、私は勤務してきた。そしてここの今の環境は、私がこれまで見てきたことがないほど有毒で、破壊的なものとなっている」と綴っている。
(中略)
「懐疑的な世間一般には驚きに聞こえるかもしれないが、ゴールドマン・サックスの成功にとって、常に不可欠な部分が組織文化だった。それはチームワーク、高潔さ、謙虚さ、そして常にクライアントにとって正しいことをするといったことを中心にしていた。この文化が、ゴールドマン・サックスを偉大な場所にし、クライアントの信頼を143年間、勝ち取ることを可能にしていた秘密のソースだった。金儲けが全てではなかった。金儲けだけでは、これだけ長年にわたって会社を維持することはできない。この文化は、組織に対するプライドと信念とに関係していた。こういうのは悲しいことだが、今日、周りを見回してみて、私がこの銀行で何年間も喜んで勤務する理由だったこうした企業文化は、その微塵も目にすることはない。私は、プライドも信念も失ってしまった」。
(「私がグーグル、ゴールドマン・サックスを辞めた理由」―大企業を去る優秀な人材たちと問われる企業文化)
これが、なくなってしまった。
そして、時を同じくして、Googleでも、であります。
またしても、シンクロニシティ、意味ある偶然と言うしかないのであります。偶然にも、前日の3月13日、グーグルの元エンジニアリング・ディレクターであるジェームス・ウィティカー(James Whittaker)氏が、『私がグーグルを去った理由(Why I Left Google)』という投稿を自身のブログで行っている。ゴールドマン・サックスのスミス氏ほど全米では注目を集めていないが、その内容はスミス氏と同様、グーグルという会社の組織文化が変わってしまったことを正直に批判したものとなっている。
ウィティカー氏の意見を最も集約した言葉は以下だろう:
「私が大好きだったグーグルは、社員がイノベーションを引き起こすことができるようにするテクノロジー・カンパニーだった。私が去ったグーグルは、企業命令で単一のことに集中してしまっている広告企業だ」。
ウィティカー氏によると、初期からグーグルは広告による売上で運営されている企業だったかもしれないが、それが全面に出ることはなかったという。エリック・シュミット氏がCEOだった時代、既に広告ビジネスが主な収益源であったが、それは背景にあって、グーグルは第一にテクノロジー企業であるとほとんどのエンジニアたちは感じていた。優秀な人材を採用し、彼らのアイディアと才能に資金を投資し、イノベーションを引き起こすという循環が起きていた。しかし、ここ3年で組織文化は変わってしまったという。
(中略)
そして、ウィティカー氏は、「真実を言えば、私はこれまで広告にそれほど興味を持ったことがない。広告をクリックすることもない」と告白をしている。さらに、「私がeメール・メッセージに書く内容に基づいてGメールが広告を表示するのは、不気味だ(it creeps me out)」とも書いている。まさに、最近ここやここで紹介したように、グーグルの(元)社員ですらグーグルの広告表示について不気味(creepy)と感じると告白している。(但し、ウィティカー氏は、この点に関して基本的にフェースブックもツイッターも「同じ穴のムジナ」である点を指摘している。)
(「私がグーグル、ゴールドマン・サックスを辞めた理由」―大企業を去る優秀な人材たちと問われる企業文化)
金儲けなるものに「プライドと信念」と言う「意志」を見失ってしまった、ゴールドマン・サックス。
片や、「広告」と言う金儲けに、その「意志」なるものを見出せない、グーグル。
両社にとって、これは正念場であります。
この問題に、いかなる「解」を見出すことができるのか。
そのヒントを、いまここでお教えするのであります。
私たちの「顧客」とは、いったい誰であるのか?
これをあらためて問いなおすことなんでありますが、この続きは、後編のお楽しみ。と言うことで、本日はこれにてお仕舞い。 KAI