「正統性」思想とは−−生命力としての正統性

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KAIは昔、こんなエントリーを書いたのであります。

「正統性は、ルールではない」(正統性の不在問題と言うシンクロニシティ)、これを逆説的に証明する判決が、最高裁でなされた。

 12年度の税制改正前の11年当時、海外居住者への海外財産の贈与は非課税扱い。争点は元専務の「住所」が日本国内か香港かで、元専務側は「約3年のうち65%程度を香港で過ごし、生活の実態があった」と主張。国側は「滞在は贈与税回避目的で、仕事上の本拠も日本」としていた。

 同小法廷は「住所」について、過去の判例を踏まえ「客観的に生活の本拠としての実態を備えているか否かによって決めるべきだ」と指摘。贈与前後の期間の3分の2を香港で過ごし、業務に従事していたことなどを挙げ、「贈与税回避の目的があったとしても客観的な生活の実態が消滅するものではない」とした。

 補足意見で須藤裁判長は、元専務の香港滞在などを「贈与税回避スキーム」と呼び、「法廷意見の結論は一般的な法感情の観点からは違和感も生じるが、やむを得ない」と述べた。
1330億追徴取り消し 武富士元専務巨額贈与税訴訟で逆転勝訴

まさに「ルール」では、「正統性」を保証できない。憲法と言えども「ルール」は、「贈与税回避スキーム」と言う「邪悪」を排除することができないのであります。

ふりかえれば、この1年、まさにこの「正統性問題」一色であったのであります。

そして、思った。小沢問題は、間違いなく「昭和天皇の祟り」なんだと。

もちろんきっかけは、みなさんご存知の通りの、小沢の天皇の一公務員扱いにある。さすがにKAIも含めて、人々の怒りのマグマが黙っていなかったってことです。

さらにさらに、みなさん、祟りをばかにするもんじゃありません。

当時小沢発言を擁護した方々についても等しく、この祟りに見舞われるのであります。ですからこの意味を理解していた共産党は、天皇制は認めてはいないにもかかわらず、小沢を非難する側に廻ったわけです。

こうしたことを考えると、祟りとは、人の精神社会の自然治癒力ではないかと思えてくる。祟りを侮ることなかれ。今週のKAIの教訓であります。 
「昭和天皇の祟り」と言う小沢問題

まさか、小沢の、いま人生最大の苦境が「昭和天皇の祟り」に原因があるとは、思いもよらぬことであるのでありましょう。

鳩山も、しかり。

アメリカのすごいところは、実はここにあるのであります。

国家としての正統性こそ、「時間の力」問題の典型ですが、アメリカは未だこの問題を決して忘れてはいません。だからこそ、彼らはもっともこの問題に対して敏感であり、すべての価値観の基本となっていると、KAIは考えているのであります。

ですから、普天間問題で日米関係を損ねることが心配されていますが、この一点において、日米関係とは、まったく不動の関係であり続けるのであります。

すなわち、オバマやクリントンにとって日本と言う国は、鳩山ではなく、平成の天皇なのです。もちろん実務レベルは現政権であることは百も承知ですが、精神社会レベルの元首は天皇以外には考えられません。
普天間問題を治癒する「時間の力」

いまからでも遅くはない。天皇への「敬虔」を示しさえすれば、あっと言うまに「方便的」邪悪をも打ち消すだけのパワーを、回復することができるのであります。

これは、ガンといった重篤なる病気や、持病なるもの、心の病も、まったくもって一緒なんであります。

いまあなたが関わっている、あなた自身の身体をおく「正統性」からどれだけ離れているか、あなた自身の心の重心との差分が、「病気」となって現れるのであります。

わかりにくいもの言いですまない。

要するに、あなた自身の心の中から「邪悪」なるものを、一掃する。ただそれだけで、ガンは治るし、病気も消える。

決して、遅くはない。もう一度、きみにこれを信じてみてほしい。病気が治ればしめたもの。そう思わないかい? KAI
正統性問題パート2−−−ガンはなぜ発症するのか

昨日の山口光市事件最高裁判決もまた、この正統性問題の絶好のテーマでありますが、「祟り」としての正統性についてを含めて、また別の機会にご説明するとして、今回はこの中の「ガン」発症についてであります。このKAIの主張を科学的に裏付ける記事があるのであります。

 私は過去20年にわたって、世界中で発表された検診の結果に関する論文を読んできました。睡眠時間、体重、生活習慣、過去に受けた医療行為など、あらゆる条件を考慮した上で、がん検診を受けた人と受けない人が十数年後にどうなっているか、追跡調査した結果にもとづく論文などです。

 その中で最も衝撃的だったのが、20年以上前にチェコスロバキアで行われた肺がん検診の追跡調査です。そこでは、検診を定期的に受けていたグループは、受けなかったグループより肺がんの死亡率が圧倒的に多く、それ以外の病気による死亡率も明らかに多いという驚愕の結論が出ているのです。

 その後、欧米各国でより精密な追跡調査が行われてきましたが、その多くが同様の結果でした。つまり、「検診を受けようが受けまいが、寿命が延びることはない」のです。

 肺がんだけでなく、他のがん検診やその他の検診でも、同傾向の結果が出ています。
岡田正彦・新潟大学医学部教授 長生きしたければがん検診は受けるな

これが、いったい何を意味しているのか。今回は、これをご説明するのであります。

そもそもにおいて、「健康」と「病気」の境目とはなんであるのか。

これをご理解いただくために、例えば、子どもが熱を出したとするのであります。

これに現代医療の多くは解熱剤を処方するのでありますが(近年この処方を制限しだしたのは少し進歩したと言える)、なぜ人は熱を出すのでありましょうか。

それは、風邪の原因であるウィルスを、体温を高くすることによって殺すための、人間の「生命反応」なのであります。ところが、これを理解しない「無知」なる母親が、必死で闘っている自分の子どもに解熱剤を処方することで、子どもの足を引っ張りウィルスと一緒になって自分の子どもにダメージを与えているのであります。

つまり、発熱そのものは「病気」でもなんでもないのであります。ただ、「健康」を維持するための防衛反応にすぎない。にもかかわらず、件の母親は、「発熱」をしてこれを「病気」にしてしまう。この間違った「治療」でもって、これを「本当」の病気に変えてしまうのであります。

この「発熱」に対する本来の対応は、苦しまないようにタオルで頭だけを冷やして、身体全体は汗を目一杯かいてもいいようにして暖め、下着をなんども着替えさせる。そしてよく眠らせる。であります。

実は、この事例にこそ、今回の問題の本質を読み解く重大なるヒントが隠されているのであります。

虚心坦懐、まっさらな気持ちでお聞きいただきたいのであります。

私たちの生命と言うものは、その生きるためにさまざまな「生命反応」を繰り返しているのであります。片時も休まずにであります。

これを「生命」の正統性と言うのでありますが、この一連の流れから振り子が振れるように「生命」は少しずつ中心線から外れるのであります。この「振れ」を中心に戻す力が「自然治癒力」であり、さきほどの「発熱」もこの自然治癒力のひとつであったのであります。

しかし、なぜ「生命」はこの「中心線」から外れるのか。この疑問に対する答えとは、すなわちそれは、人は自分自身で「病気」を創りだしてしまうと言う、まぎれもない真実であります。

そしてその典型的事例こそ、先に引用した「ガン検診」の疫学調査の結果であるのであります。

「ガン検診」や「抗がん剤」それ自体がガン発症あるいは重篤化の原因となっている。岡田教授はそこまでは言わないけれど、医療機関、製薬会社、医療機器メーカー、そのすべてにとって、これは間違いなく「不都合な真実」であるのであります。

ただ、この問題の直接的原因を岡田教授は、レントゲンやCTによる放射線被爆にあるとお考えになっているのでありますが、もしそうであるなら放射線被爆がなければガンを発症しないのかと言えば、まったくもってそうではないのであります。

そうではなく、「放射線被爆」は、結果的に間接的原因となっているだけでありまして、その直接的原因とは、「検診」を受けなければいけないと思う気持ち、すなわち「不安心理」自体がガン発症の契機を創っていると考えるべきものなのであります。

更にであります。この「不安心理」はどこからくるのか。これがすなわち、自分自身の行動や心理状態が「生命」の正統性の中心線から外れてしまっていることを、無意識の中で感じているからに他ならないからであります。

人をだましたりウソをつくような何か間違ったことをしていないか、人を恨んだり憎むようなことをしていないか、欲に溺れた生活をしていないか、よく考えることであります。

そうではなく、いま与えられた「生命」に感謝し、ひたすら人に「与え」続ける。

これを先人は、「忍耐であり、寛容であり、慈愛」と教えてきたのであります。

すなわち、忍耐のない精神、人を許すことのない寛容ない精神、人から奪うことしかない精神、これらすべてが人の病気の原因となり、そのまままったく逆となって、忍耐と寛容と慈愛の精神こそが病を治癒するのであります。

こんなことを言うと、では遺伝病で生まれてきた子どもはどうなのかと反言される。

確かに遺伝病の原因は、忍耐も寛容も慈愛も関係していないかもしれない。しかし、これを治癒する「チカラ」が、「忍耐であり、寛容であり、慈愛である」ことの中に、間違いなく有るのであります。

あるいは、大人になってから遺伝病ではないガンになって、その原因が自分の行動や心理にあるとするのは、患者となった人にとっては酷な話と非難する方が現れるかもしれない。

しかし、お考えいただきたいのは、もしこれがいままで「忍耐であり、寛容であり、慈愛である」ことが足りていなかったとして、これをもっと回復することでもって病が治癒するとしたら、これは決して酷でもなんでもない、きわめて重要な認識となるのであります。

もちろんこれは、病院で行われる医師による治療を否定するものでもなんでもないのでありますが、岡田教授が続きの記事の中で述べている通り、はい、患部を除去してお仕舞い、では決してこれは治療でもなんでもない、さきほどの解熱剤同様、ただ自然治癒力を弱めることになるだけであることを、みなさんには十分頭に叩き込んでいただきたいのであります。

今回のこのお話に、いったいなんの意味があるのか。

それは、ガン検診にしろガン治療にしろ、そのこと自体になんの意味があるのか。定期検診をやることが決まっているからとか、医者が勧めるからとかではなく、これを自分自身で評価できる、その価値基準としての「思想」こそ、人として健康かつ幸せに生きるために欠くべからざるフォース、すなわち生命力の源泉となるものなのであります。

そしてそれが、生命力としての正統性の意味と言うわけであります。 KAI