今回のテーマは、身体性問題。
今回は、ほとんどKAIの過去のエントリーを引用しまくりになるかと思われるのでありますが、よってなにを言わんとするか、先にかいつまんでご説明申しあげるのであります。
いま、喫緊の課題は身体性問題、すなわち、いかにリアリティと言う、生きている「実感」を得ることができるか。
これが、「利他」の行為によってのみあなたの「存在感」、リアリティを感じることが可能になる。
一方で、「利他」の対偶的鏡像関係と言う「病的」なリアリティがある。これは、自分や他人を「弱者」や「病気」に追い込む人たちのことで、彼らは自分を「病気」にすることでしか、(他者から利他を得ると言うかたちの)リアリティを感じることができないのであります。
「病気」になって初めて、「生きている」と言う実感を感じることができるのであります。あるいはまた、自分は「病気」であると思い込むことが、すなわち「生きている」実感を得ることができるのであります。
きっかけのお話は、これ。
慎太郎が憤慨するのも当たり前。件の芥川賞作家も、物議をかもす香山リカも、デマゴーグ五十嵐仁も、反・幸福論の佐伯啓思も、みな「病的」リアリティに侵されているのであります。「自分の人生を反映したようなリアリティーがないね」
芥川賞の選考委員を務める東京都の石原慎太郎知事は6日の定例会見で、いまの若手作家に欠けているものについて、こう語った。石原知事は「太陽の季節」で第34回芥川賞を受賞している。
石原知事は「(作品に)心と身体、心身性といったものが感じられない」と指摘。「見事な『つくりごと』でも結構ですが、本物の、英語で言うならジェニュイン(正真正銘)なものがない」と述べた。石原知事は昨年11月の会見でも「みんなマーケティングで、同じ小説家がくるくる違うことを書く。観念というか、自分の感性でとらえた主題を一生追いかけていくのが芸術家だと思う」などと語っていた。
第146回の芥川賞候補作は6日付で発表され、17日に選考委員会が開かれるが、石原知事は「苦労して読んでますけど、バカみたいな作品ばっかりだよ」とぼやくように話した。
(芥川賞候補作は「バカみたいな作品ばかり」選考委員の石原都知事)
もちろん、これは今に始まったことでもなんでもない。日本の国の、もって生まれた宿命みたいなもの。
そして、久しぶりにウチダ先生が、書いている。本日は終戦記念日。本日付の産経新聞に、昭和45年(1970年)7月7日付同紙夕刊に掲載された、三島由紀夫の「私の中の25年」と言う随想が、再掲載されています。
筆者は、以前からここに書いている通り、ここ何十年一度も小説と言うものを読んだことがない、まったく文学論からほど遠いところにいる人間ですが、この随想を読むと、三島由紀夫がどう言う人物であったか手に取るように見えてきます。文章の端々から、当時の彼が、知行不一致、精神と肉体の乖離、リアリティの喪失と言う苦悩に覆われていたことがよく分かるのです。
この随想を書いた年の11月25日、あの自衛隊市ヶ谷駐屯地で起こした事件の映像は、いまだに筆者のまぶたに残っています。事件当時、なぜ彼があのような行動に出たのか、深く考えることはありませんでした。それから時を重ねて35年。今朝のこの新聞記事に出会って、やっと彼の心の中を覗い知ることができたような気がします。
リアリティの喪失。戦後60年の今、最も大きな社会問題が、これです。
逮捕された道路公団の副総裁が昨年、ぬけぬけと記者会見して、道路公団の闇を指摘する猪瀬直樹批判を繰り返していました。こう言うのを厚顔無恥と言うのでしょうが、世の中、厚顔無恥の映像に溢れていて、彼らの人相の悪さに毎日気分が悪くなります。
知のリアリティを担保するのが行動です。精神のリアリティを保証するのが肉体です。社会の精神が、このリアリティを喪失するとは、すなわち国家と言う人間社会の崩壊を意味します。具体的には国家を構成する一人一人の人間が、一人一人の人間を信頼しなくなると言うことです。他人を敬うこともなければ、人を尊ぶこともない。あるのは己のみ。己さえよければと言う社会です。
情報社会も、そのまま現実を写します。これはつまり、インターネットで流通する情報に、どれだけのリアリティがあるのか、と言う問題でもあります。
昨年暮れ、筆者は西垣通氏の論文を取り上げ、情報哲学について次のように書きました。
情報の哲学を一言で言うと「情報と言う存在における、存在間の相互価値の共有化」です。共有化であって共通化、同一化ではありません。情報は思想的には中立の存在ですが、価値は思想の上にあります。思想は、社会の基盤をなし、人々の価値観を支配しまた支援します。ITによる情報現象を、そのまま自然現象のように受け入れるのではなく、相互価値の共有化を実現する方向へと変えていくというのが、これまたITの役割であり、情報哲学と言う「思想」の意味なのです。これはITと言う存在を、科学技術という無色透明の世界で扱っている限り、「意味解釈のロボット化」は避けて通れないと言うことでもあります。
つまり、意味解釈の自己組織化として、ITには「思想」と言う価値が必要であり、この思想に則った世界観に基づくアーキテクチャが求められています。難しい書き方をしていますが、インターネットで流通する情報のリアリティを担保する仕掛けとは、情報の相互価値を認め合うことのできる“双方向”の仕掛け以外にはあり得ないと言うことです。インターネット上のアプリケーションによってこれを実現して行くというのが、私たち、ソフトウェアにかかわる者の使命であると、筆者は信じて已みません。
35年前の三島が、文学と言う手段ではなしえないと絶望した社会変革を、私たちの手で実際に行うことができる手前まで、今時代は来ています。 KAI
(リアリティの喪失社会)
こちらは、メディアの身体性問題。というのは、ある社会事象を語るための基礎的な語彙や、価値判断の枠組みそのものを提供するのがメディアだからである。メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準をメディア自身は提供しない。「メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準を提供することができない」という不能が現在のメディアの劣化の本質なのだと私は思う。
(中略)
メディアは「ゆらいだ」ものであるために、「デタッチメント」と「コミットメント」を同時的に果たすことを求められる。「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、それが何であるのか、なぜ起きたのか、どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、混沌としたこの世界の成り立ちを(多少とでも)明晰な語法で明らかにし、そこでの人間たちのふるまい方について(多少とでも)倫理的な指示を示すことができる。
メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を引き受けることではじめてその社会的機能を果たし得る。だが、現実に日本のメディアで起きているのは、「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。ある媒体はひたすら「デタッチメント」的であり、ある媒体はひたすら「コミットメント的」である。同一媒体の中でもある記事や番組は「デタッチメント」的であり、別の記事や番組は「コミットメント」的である。「デタッチメント」的報道はストレートな事実しか報道しない。その出来事がどういう文脈で起きたことなのか、どういう意味を持つものなのか、私たちはその出来事をどう解釈すべきなのかについて、何の手がかりも提供しない。そこに「主観的願望」が混じり込むことを嫌うのである。
「コミットメント」的報道は逆にその出来事がある具体的な個人にとってどういう意味を持つのかしか語らない。個人の喜怒哀楽の感情や、信念や思い込みを一方的に送り流すだけで、そのような情感や思念が他ならぬこの人において、なぜどのように生じたのかを「非人情」な視点から分析することを自制する。そこに「客観的冷静さ」が混じり込むことを嫌うからである。
「生の出来事」に対して、「デタッチメント」報道は過剰に非関与的にふるまうことで、「コミットメント」報道は過剰に関与的にふるまうことで、いずれも、出来事を適切に観察し、分析し、対処を論ずる道すじを自分で塞いでしまっている。
私たちの国のメディアの病態は人格解離であり、それがメディアの成熟を妨げており、想定外の事態への適切に対応する力を毀損している。いまメディアに必要なものは、あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う。同語反復と知りつつ言うが、メディアが生き返るためには、それがもう一度「生き物」になる他ない。
(日本のメディアの病について)
前段は、メディアと言う「第三者の審級」のお話。
要するに、すでにメディアからネットへ「その資格」は移ってしまったと言うことであります。大澤真幸氏の「メディアの再身体化と公的な知の不在」から引用です(環Vol20、2005Winter)。
さて、こうした用語を用いるならば、ここまでの議論が含意していることは、次のことである。すなわち、電子メディアは、触覚に比肩しうるほどに直截に、求心化作用と遠心化作用の一体性を現実化しているのだ。(中略)こうして、電子メディアは、他者の身体を、遠隔化しつつ近接化する。遠隔化のアスペクトに注目すれば、それは、脱身体性を代表する。近接化のアスペクトに注目すれば、それは、触覚的な、再身体化するメディアにも見えてくる。(p.102-103)(中略)
だが、レヴィナスの議論に沿った、こうした説明には、まだ考慮に入れられていない盲点がある。他者の身体に深さを与える「内部」を持続的な実体として構成するためには、私と他者(の顔)のどちらでもない第三項が−−−それ自身は顔を持たない第三者が−−−必要だ、ということが無視されているのだ。私と顔が二項的に対峙しあっている限りにおいては、顔の表層に還元できない「何か」は、顔そのものの知覚から独立した実体として切り離されることはない。そうした「何か」が、他者の身体の表面から分離された、知覚できない「内部」としての意味を獲得するためには、−−−詳述する余裕はないが−−−私と他者とが共通にコミットしている第三者の存在が、それ自身は直接に顔を現すことのない第三者の存在が、想定されていなくてはならない。それこそは、われわれが「第三者の審級」(引用者追記:the instance of the third person)と呼んできた、超越(論)的な他者である。要するに、顔と顔との間の関係を、独立した人格同士の共同主観的な関係として安定化させるためには、顔のない第三者の審級が必要なのだ。
さて、伝統的には、多くの場合、特定の一者から(不特定の)多数者へと情報を配信するマスメディアが、当該共同体における第三者の審級の機能を果たしてきた。とりわけ、文字メディアを用いるマスメディアが、である。(p.104)
(中略)
マスメディアがこのような機能を担いうるのは、それが、遠くから語りかけるからである。それゆえ、触覚的な直接性において体験される電子メディアは、とりわけサイバースペース内のメディアは、第三者の審級としては機能しない。新聞や書籍に記された情報は、それを知っている人、それに関心を持っている人が、たとえごく僅かであったとしても、公的なものとして意味づけられる。(p.105)
(中略)
ここで、先に指摘したこと、すなわち共同主観的な関係が安定化するためには第三者の審級が必要だということを、あらためて想起する必要がある。私の身体と他者の身体が、互いに直接にはアクセスすることができない「内部」を備え、安全な距離を保つことができるようになるためには、第三者の審級がいなくてはならない。第三者の審級が撤退した場合、第三者の審級の機能が弱体化している場合、つまり身体の求心化作用−遠心化作用を媒介にしてのみ他者を体験している場合、私にとって、他者は、あまりにも直接的である。(p.106)
要約すると、電子メディア環境における身体性は、遠隔性による脱身体化と、求心化および遠心化と言う近接化による(触覚的)再身体化の、二つの側面を持っている。後者の側面において、身体の「内部」を安定化させるための第三者の審級と呼ぶ超越的他者が必要であり、この機能をはたすのがマスメディアである。この存在の有り様によって、(引用外ですが)近接化に対する耐性のなさを、身体性は露呈するものである。
前段は、以前議論した「情報哲学に関するエントリー」の内容を見事に補完してくれます。
後段の第三者の審級がマスメディアであるかどうかは異論がありますが、第三者の審級不在(あるいは劣化)による近接化の身体の瓦解は、その通りだと思います。
そこで、第三者の審級が、マスメディアであるかどうかです。
これは、前段の内容とも関連するのですが、正に自己組織化の問題です。自己組織化において相互干渉が必須要件であることはすでに何度も述べてきましたが、もうひとつ必須要件があります。それは絶対量の問題です。絶対量とは、それを構成する要素の数が、数十レベルから数百レベルでは出現しない現象が、ある閾値を越えると突然様相を変えると言うものです。いわゆるモード転換です。
つまり、個別の近接性の絶対量の集合が、第三者の審級と呼ぶ、質、意味を獲得しているのです。
筆者は、100万ステップクラスのアプリケーションをいくつか、この20数年にわたって実際に現場で開発してきた経験から感じるのですが、100万ステップクラスのアプリケーションでは、本当にこの「モード転換」が起こります。このモード転換したアプリケーションが、あらゆる意味で、新しいアプリケーションに影響を与えるだけではなく、アプリケーションの進化そのものの「パワー」となる現象が発生しています。
つまり、マスメディアと言う存在は、象徴としてのマスメディアはあっても、すでにその存在自体、実体として個別の近接化した再身体化に支配されていると言う事実を受け入れなければ、マスメディアの「現在の有り様」は説明できません。
そろそろ自己組織化するアプリケーション第二部もまとまってきましたので、そちらに移りたいと思います。 KAI
(「情報」とは何か(3))
そして後段の、「デタッチメント」と「コミットメント」。
すでにウチダ先生、「メディアの病」は定番のテーマでありました。今週のお題は、期せずして「メディアの病」2題。
まず、毎日新聞論説委員の「メディアの病」。
要するに、メディアのスタンスに、問題解決に対する「当事者意識」が決定的に欠如していることであります。「何年か前、さる大学に新設された大学院教授と話したことがある。『高度な専門知識を持つ職業人を育成したい。新聞社への就職も期待していますので、よろしく』。そうのたまうので、思わずツッコミを入れてしまった。『就活の開始時期が早過ぎて学部教育がおそろかになっている。それを放置しながら大学院で職業教育というのは本末転倒じゃないですか。』」
この論説委員がどうして新聞社への就職を懇請した教授に対して自分には「ツッコミ」を入れる権利があると思えたのか、私にはどうしてもわからないのである。
「就活の開始時期が早過ぎる」というのは誰がどう考えても大学の責任ではない。
雇用する側の責任である。
(中略)
それについての大学に対する「謝罪の言葉」というのを私はかつて一度も聴いたことがない。
繰り返し言うが、就活の前倒しで学部教育を空洞化しているのは、雇用側の責任である。
「ツッコミ」を入れる権利があるのは、「本社は大学の学部教育を支援するために、在学中から就活をするような学生は採用しません」と宣言している企業だけである。
このコラムにはまだ続きがある。
「謹厳な教授はしばらく黙ったのち、こう応えた。『おっしゃる通り』」
この「謹厳な」大学院大学教授は何を考えてこんな返答をしたのであろう。
もちろん、「あなたに同意する」という意味であるはずがない。
おそらく、「しばらく黙った」のは対話の相手の知的な不調に驚いて絶句したのであろう。
「おっしゃる通り」というのは「言いたいことはよくわかった」と同じで、「早く帰れ」を含意していたのであろう。
高等教育の不調の原因が専一的に大学側にあること、これは動かしがたい事実である。
けれども、「就活の開始時期が早過ぎる」というのは、企業人が大学人に向かって他責的な口ぶりで言える台詞ではない。
おそらく、つねに他責的な口調でシステムの非をならしているうちに、「自分自身が有責者として加担している問題」が存在する可能性を失念してしまったのであろう。
メディアの病は深い。
(メディアの病)
そしてこちらは、産経新聞。
この編集委員に悪意はないのはわかっている。単に無策の日本政府を皮肉っただけと言いたいのでありましょうが、これはいかにもおかしい。日本人のノーベル平和賞受賞者は、沖縄返還の故佐藤栄作氏しかいない。そこで提案だが、日本政府は「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(通称・家族会、飯塚繁雄代表)にノーベル平和賞が授与されるように働きかけてはどうだろうか。
日本人のノーベル平和賞受賞者は、沖縄返還の故佐藤栄作氏しかいない。そこで提案だが、日本政府は「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(通称・家族会、飯塚繁雄代表)にノーベル平和賞が授与されるように働きかけてはどうだろうか。
政府はここ数年、拉致被害者救出に何の手も打っていない。幸い、ノーベル平和賞だけは団体の受賞が認められている。家族会は、一人一人は何の力ももたない市井の人の集まりだ。その彼らが悪辣(あくらつ)な犯罪国家に敢然と立ち向かっている。日本だけでなく、世界で拉致被害者の救済を訴えている。設立から13年、家族会こそは平和賞を受賞するにふさわしい。受賞となればまた新たな進展も期待できよう。
繰り返すが、政府は、何もしないのなら、せめて中国政府とは逆の働きかけをノーベル賞委員会にしてはどうだろうか。(編集委員 大野敏明)
(【from Editor】家族会にノーベル平和賞を)
拉致問題に関して言えば、この政府の無策を報道する責任は、一義にも二義にもメディア側にあるからであります。
どのメディアでもいいから、「拉致問題、今日の動向」と言うタイトルのコラムを毎日欠かさず掲載して、行動した事実だけではなく「行動がない」ことの事実を報道するだけで、どれだけ家族会の手助けになることか、よく考えていただきたいのであります。
メディアの役割とは、中立的第三者を装うことでもなければ、政府を一方的に批判することでもない。それは、私たちの社会が抱える問題を、当事者として国民と一緒になって解決する、そのための第4の権力が与えられているのであります。
この当事者責任と言う意識の決定的欠如。これを「メディアの病」と呼ぶのであります。
(メディアの病と予知能力的週末テニス)
この「デタッチメント」と「コミットメント」の解離も、「病的」リアリティの一つであります。
これらから、メディアを、うそっぽさのない、まともな「リアリティ」の世界へ引き戻すには、「検証」と「調査」と「不断」の報道、すなわち「贈与」の報道以外にはないのであります。
と言うことで、引用だらけの手抜きレポートは、もうしませんから、次回もまた読んでね。 KAI