アプリケーション価値の時代を生きる(3)−−お金の発明を起点にして

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「貨幣価値からアプリケーション価値へ」

これもまたシンクロニシティ。貨幣価値とはなんぞや。この本質を読み解く記事があるのであります。

岩井:3年ほど前のことです。お金についての小さな国際会議がベルリンでありました。非常に学際的で、経済学者の他、社会学や歴史、哲学などの専門家が15人ほど集まって三日間ほど集中的に議論しました。そのなかで私がもっとも刺激を受けたのが、イギリスから招かれたギリシャ古典の大家であるリチャード・シーフォードさんの発表でした。

 彼の研究の発端となった疑問は「なぜ我々は、古代ギリシャ人を近い存在に感じるのか。なぜ古代ギリシャは現代なのか」というものでした。具体的に言えば、ギリシャ神話の悲喜劇は、今読んでも、古さを感じさせず、現代の文芸作品と同じような感動を与えてくれる。そしてギリシャが紀元前の世紀に実現した民主主義の仕組みは、現代の民主主義の原型ですし、さらに、ギリシャにおいて、現代につながる哲学や科学が始めて生まれました。

池上:なるほど。古代ギリシャの市民社会文明は、まさに現代社会とそっくりだ。
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岩井:ただ、古代ギリシャと現代社会には共通項が多いぞ、という話自体は聞き覚えがあるはずです。私が衝撃を受けた、というよりは歓喜したのは、シーフォードさんが出した解の方にありました。なぜギリシャと現代はそっくりなのか? 彼の結論は「ギリシャは世界史上で最初に、完全な貨幣経済を実現した社会だったから」というものでした。

池上:何と、お金の発明がギリシャ文明の前にまずあった、ということですか!

岩井:ギリシャでは紀元前7世紀ごろから、貨幣が流通するようになりました。ユーロ統合まで使われていたギリシャの通過単位ドラクマが既にこのとき誕生しています。貨幣はコインで、その素材は、金と銀の合金でした。ただし、当時はまだ金と銀の合金を安定して製造する技術はありませんでした。ですから、最初から金と銀が混ざっている合金を掘り出して、それを鋳造してコインにしていたのです。よって、金と銀の比率はコインによってバラバラでした。

 つまり素材としての価値はコインごとにバラバラだったのです。金の含有量が多いコインも少ないコインもあった。でも、古代ギリシャでは、金の含有率というコインのものとしての価値を流通させるのではなく、どのコインも1ドラクマという抽象的な「お金」として流通させたのです。

池上:物としての価値ではなく、みんなが認めた貨幣単位をコインのかたちで流通させる。まさに貨幣経済の誕生がすでにこのときのギリシャであったわけですね。でも、それがなぜ現代文明とそっくりな古代ギリシャの文明と結びつくんでしょうか?

岩井:この世の中に、個々のモノや個々の人間を超えた、抽象的な価値や普遍的な法則が存在すること、しかも神様とは独立に存在しうること。これが近代文明の基本です。科学も哲学も政治も文学も、すべて抽象的な価値や普遍的な法則を共有することで、初めて成立する。まず、具体的なモノとしてはバラバラなお金を、抽象的で普遍的な価値として、社会全体が日常的に使い合うという貨幣経済の誕生こそは、まさに近代文明に通じる古代ギリシャ文明の礎なのだ、というのがシーフォードさんの説だったのです。

池上:抽象価値を共有する。それが文明である。そして初めてギリシャ人が共有した抽象価値こそは、「貨幣=お金」だった、というわけですか。目から鱗が落ちる話です。それにしても、ユーロ危機発祥の地ともいえるギリシャが、紀元前6世紀に「お金」を生んだことでと、現代文明の基礎が出来上がった、というのは何とも皮肉な話です。

岩井:まったくですね(笑)。古代ギリシャでは貨幣の流通をきっかけに、抽象思考の実践が行われました。イデア論を唱えたプラトンなどはまさにその申し子です。ギリシャ哲学は、お金から生まれたともいえます。それはまた、この世には個々の事物の雑多さを超えた、普遍的な法則性が存在するはずだという、科学的な世界観の出発点にもなった。

 それだけではありません。金の含有率は違っても、1ドラクマコインはすべて1ドラクマの価値を持つ、同じである、平等である、という考え方は、個人の間の平等性を前提とする、まさに民主主義の誕生につながります。さらに、お金の流通が進むと、人間は共同体的な絆から切り離されます。つまり、「個人」となります。これまで共同体的な規制や慣習にもとづいて行動すればよかった個々の人間が、英雄でもないのに、自分で自分の運命を切り開いていかなければならなくなる。それは必然的に、悲劇や喜劇を生み出します。

 かくして、お金が日常的に人々の間で流通し始めたことが、今につながる文明社会を生み出したのだ――。こうシーフォードさんは結論づけました。

 私も仮説としては前から同様のことを考えていたのですが、経済学者が「お金が文明を産んだ」というとどうしてもポジショントークに聞こえてします。ところが、経済と一見全く縁のない古典学者が指摘した。そこに私は大変嬉しいショックを受けました。

池上:近代がお金を作ったのではなく、お金が近代を作ったのですね。誰かが発明したのか、自然発生的に生じたのかはわかりませんが、私たちの文明は、科学も哲学も文学も民主主義も、まず先にお金ありきである、と。これからも私たちは、お金とは縁を切れそうにありませんね。
「実はお金があったから、科学も哲学も文学も民主主義も生まれたのです」岩井克人×池上彰対談(3)

このお話の本質は、おわかりでしょうか?

単純に、人類が貨幣を発明し、これが起源となって近代文明が芽生えた、なんて理解した瞬間、なにもわかったことにはならないのであります。

そうではなく、貨幣とはなんであるのか。この貨幣の本質にかかわるお話であるのであります。

貨幣の一般的な説明は、こちら。

貨幣(かへい)とは、

  • 商品交換の際の媒介物で、価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3機能を持つもののこと[1]。
  • 商品の価値尺度、交換手段として社会に流通しているもので、またそれ自体が価値あるもの、富として蓄蔵を図られるもの[2]。
貨幣、Wikipedia
ここでは「商品交換」と言う側面での貨幣の「価値」機能が説明されているのでありますが、現代社会では、むしろ「信用創造」としての機能がより強化されていると言えるのであります。

しかし、上記引用の通り岩井教授が紹介されているリチャード・シーフォード氏の見解をよく吟味したうえで、あらためてこの貨幣の意味を考え直すならば、こういった「商品交換」とか「信用創造」といった「実用的」機能としてではなく、「抽象的で普遍的な価値」としての機能にこそ、貨幣の本質があることに着目する必要があるのであります。

そして、この「抽象的で普遍的な価値」の効果としての、「個人」概念の誕生であります。

さらに、お金の流通が進むと、人間は共同体的な絆から切り離されます。つまり、「個人」となります。これまで共同体的な規制や慣習にもとづいて行動すればよかった個々の人間が、英雄でもないのに、自分で自分の運命を切り開いていかなければならなくなる。それは必然的に、悲劇や喜劇を生み出します。

なんと「悲劇や喜劇」を演出する、現代社会の「お金」が持つ「負の側面」は、もとをたどればその発明の時から貨幣と言うものの持って生まれた「性(さが)」であったと言うのであります。

このお話は、今回のテーマ「アプリケーション価値」について考察するうえで、きわめて示唆的なんであります。

すなわちそれは、「お金」では評価することのできない「価値」の存在であり、それがこれまた重要なテーマである「贈与価値」の問題であるのであります。

「共同体的な絆」を切り離すとする「お金」の効果と、「共同体の絆」の源泉たる「贈与」、この二つが相容れないのは、この原理からしてもっともなことだったのであります。

そして、この「贈与」が「アプリケーション価値」と繋がる。

以前、KAIは「アプリケーション価値」とは「社会的有用性」と申しあげたのでありますが、これがすなわち「贈与価値」であるわけであります。

もちろん、ずっと大昔から「贈与価値」は存在し続けている。これは、しかしながら、「貨幣」のような「カタチ」にすることが、ずっと永い間できなかったのであります。

これがしかし、人類がコンピュータを手に入れたことで、「アプリケーション」と言う具体的な「カタチ」にすることがようやく実現したのであります。

これこそが、「アプリケーション価値」の時代の到来であり、私たちはこの「アプリケーション」といかなるかかわりをもっていけばいいのか、「アプリケーション価値」の時代の「生き方」をいま私たちは問われているのであります。

直接的には「プログラマ」として「アプリケーション」とかかわる方法がある。これもまた、すでに何度も議論してきたことでありました。

これはもうシンクロニシティの力としか言いようがない。

商業というのは本質的に等価交換であり、そこからは何も富は生み出されない。重農主義者たちはそう考えた。
「『純粋の商業は・・・等しい価値と価値との交換にすぎず、これらの価値にかんしては、契約者どうしの間には、損失も儲けもない。』なぜなら、『交換は何ものをも生産せず、つねにひとつの価値と等しい価値の富との交換があるだけで、その結果真の富の増加はありえない』(ケネー)からである」(中沢新一、『純粋な自然の贈与』、講談社学術文庫、2009年、100頁)
ところが農業生産だけは富をつくりだす。
「農業では地球が創造をおこなからだ。大地に春撒いた百粒の小麦種は、秋にはその千倍の小麦種に増殖をおこなう。この増殖分から、労働に必要だったさまざまな経費や賃金をさっぴいても残るものがある。ケネーが『純生産物』と呼んだ、この増殖分こそが、農業における剰余価値の生産をしめしている。」(Ibid.)
マルクスも、富の増殖については、流通過程以外のどこかで剰余価値が創造されていることについてはケネーと同意見だった。
だが、重農主義者とは違い、マルクスは「自然の贈与」ではなく、「労働力」が富の源泉だと考えた。
労働力は「ピュシス」の力である。
外部の自然は、労働者の身体を通して、贈与を行う。
「労働者は、商品という形に物質化された労働を、資本家に売っているわけではなく、この抽象的なピュシスの力である労働力を売っている。ここに資本主義世界における、剰余価値発生の秘密が隠されている。」(106頁)
ピュシスの贈り物

このウチダ先生の文章を読んで、わかった。いまインターネット上で動作するすべてのアプリケーションをプログラミングすることの意味と、その価値とは何であるかが。

これは、人類が生み出した、まったく新しい第二の「アグリカルチャー」だったのです。

自然が与えた「ソフトウェア」と言う生命を、「アプリケーション」として育てること。これこそがプログラミングの意味だった。

もちろん、プログラミングと言っても、オフラインのアプリケーションではない、インターネット上の成長するソフトウェアとしての自己組織化アプリケーションのプログラミングのこと。

そして、このアプリケーションのネットワークに参画する人たちが、「人間的成長」と言うこの自然の贈与を享受できる。

つまり、クラ交換という何の富も生み出さない無限交換のプロセスにおいて、「外部の富」は、共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟というかたちで世界に滲出しているのである。
ビジネスの場でゆきかっている商品やサービスや情報そのものは富を生み出すわけではない。
そのようなビジネスを行う相手を安定的に確保するためには、そこに「共生」の関係がうちたてられなければならないということと、ビジネスを円滑にすすめるためには当事者に人間的成熟が必須であるということが、ビジネスのもたらす「外部の富」なのである。
ピュシスの贈り物

もうこれは、20周年記念的お話そのものではありませんか。

ここでウチダ先生が書く「人間的成熟」こそ、KAIの言う「人間的成長」です。すべてはここに帰すると言うこと。

なるほど、ビジネスをこの次元にまで高めることと、ビジネスにおける成功とは、まったく同義のことであったのであります。 KAI
プログラミングとは農業だった!

では、私はまったくプログラミングなんて、と言う方は、いったいどうすればいいのか。この格好の事例をご紹介するのであります。

空と雲と富士山

これでいいのであります。

毎日ブログを書き続ける。

もちろん中身はなんでもいいわけではありません。件のブログのような「定点観測」が基本であります。

ブログを書くあなた自身が、「観測」と言う「アプリケーション」になればいいだけなんであります。

先日のエントリーで取り上げた「キュレーター」も、まったく同じであります。あなた自身が「キュレーション」と言う「アプリケーション」になって、社会に「贈与」すればいいだけなんであります。

この見返りは?

なんて、問わない。「贈与」こそ目的であります。

と言うことで、まだまだ続くのであります。 KAI