今週月曜日、2年前の選挙の次の日とはうってかわって、久しぶりの気持ちいい朝でありました。
日曜夜8時NHKのテロップを見て、うれしさのあまり、ついつい感情剥き出しのエントリーを書いてしまったのでありますが、それほどまでにメディアを含む既成勢力の卑劣なやりかたには腹に据えかねるものがあったのであります。
そしてまたぞろ出てくるのが、小泉、石原、橋下を並び立てての「ポピュリズム」批判であります。
もうどうでもよろしいのでありますが、せっかくの機会であります。少々この「ポピュリズム」について考察しておくのであります。
と、その前に、気になっていた上村元係長の裁判情報であります。
ネットを検索しても出てこないはずです。なんとまだ裁判は続いていたのであります。供述を翻して単独犯行と主張する上村元係長の裁判。この結果について、ネットを検索してもどこにも出てこないのが不思議であります。
(上村勉元係長が今なにをしているのかがすべてを語る)
この裁判、始まったのが2010年6月9日。当初の結審予定は、11月25日。2011.11.2 20:41 [刑事裁判]
厚生労働省元局長、村木厚子さん(55)の無罪が確定した郵便不正事件で、自称障害者団体「凛の会」に偽の公的証明書を発行したとして、有印公文書偽造・同行使などの罪に問われた厚労省元係長、上村(かみむら)勉被告(42)の論告求刑公判が2日、大阪地裁(中川博之裁判長)で開かれた。検察側は「安易に犯行に及び責任は重大だ」として懲役1年6月を求刑した。弁護側は上村被告宅から押収されたフロッピーディスク(FD)をめぐる大阪地検特捜部の押収資料改竄(かいざん)・犯人隠避事件を踏まえ、「手続きに重大な違法があった」と裁判の打ち切りを求め結審した。判決は来年1月23日に言い渡される。
(厚労省元係長の公判 弁護側が裁判打ち切り求め結審 検察側は懲役1年6月求刑)
これが1年近く延びたのは、おそらく審理中に検察側の情報開示かなにかで最高裁までいった関係と思われるのでありますが、ようやく来年1月23日に判決であります。
と言うことで、ポピュリズムであります。
この「ポピュリズム」と言う言葉ほど、無定見に使われている言葉はないのであります。
こう単純な定義で割り切れないのが、ポピュリズムのポピュリズムたる所以なんであります。ポピュリズム(英: Populism)とは、ラテン語の「populus(民衆)」に由来し、民衆の利益が政治に反映されるべきという政治的立場を指す[1]。大衆主義。ノーラン・チャートによる定義では、個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても慎重ないし消極的な立場を採る政治理念を指し、権威主義や全体主義と同義[2]。個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても積極的な立場を採る政治理念である自由至上主義(リバタリアニズム)とは対極の概念[3]。
(ポピュリズム、Wikipedia)
続いて山口二郎的解釈。
こちらはかなり偏った解釈でありますが、これを読んでもいまひとつすっきりしないのは、いったいなぜなのか。政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶ。ポピュリズムは諸刃の剣である。庶民の素朴な常識によってエリートの腐敗や特権を是正するという方向に向かうとき、ポピュリズムは改革のエネルギーとなることもある。しかし、大衆の欲求不満や不安をあおってリーダーへの支持の源泉とするという手法が乱用されれば、民主政治は衆愚政治に堕し、庶民のエネルギーは自由の破壊、集団的熱狂に向かいうる。例えば、共産主義への恐怖を背景にした1950年代前半の米国におけるマッカーシズムなどがその代表例である。民主政治は常にポピュリズムに堕する危険性を持つ。そのような場合、問題を単純化し、思考や議論を回避することがどのような害悪をもたらすか、国民に語りかけ、考えさせるのがリーダーの役割である。
( 山口二郎 北海道大学教授 )
(知恵蔵2011の解説)
KAI的に一番わかりやすかったのが、こちらのメモ書き。
負け犬が好んで使う「ポピュリズム」とは、この転じた意味としての「大衆迎合主義」。
- 民衆の利益の増進を目標とする政治思想。既存の体制を批判し,知性に重きを置く立場を否定する。民衆主義。人民主義。
- 転じて,大衆迎合主義という訳語が当てられる。
- 今日、一般的に使われるのはこちらの意味であり、「ポピュリズム」はネガティブなイメージとして用いられる。
(「ポピュリズム」の個人的な勉強メモ。)
- ポピュリズムは、日本語に訳しにくい概念。ピープルやポピュラーと語源をともにする言葉であり、19世紀末から20世紀にかけてアメリカにおいて目立つ現象となった。庶民大衆の実感を重視して政治を動かしていくのがポピュリズムである。
- ポピュリズムは功罪を持ち合わせている両義的な概念である。
- 庶民大衆が素朴な正義感や健全な判断力を発揮するならば、ポピュリズムは健全な民主政治を動かしていく可能性がある。
- 19世紀末〜20世紀初頭のアメリカでは、ポピュリズムのエネルギーによって大企業の独占に対する規制など平等や攻勢を志向する政策が実現された。cf.反トラスト法
- しかし、庶民大衆の実感が偏見や因習にとらわれたものであれば、自由や民主主義を破壊する方向に向かっていく危険性もある。その場合、ポピュリズムはデマゴーグと結びつく。
しかし、ポピュリズムと称される小泉、石原、橋下、どの政治家をとっても、まったくもって「迎合」とは真逆の政治家であることは明らかなんであります。
彼らに共通するのは、明確な「メッセージ」の発信であります。しかもこの「メッセージ」の中身からして、大衆に媚びるものは何一つない。
にもかかわらず、彼らを批判する側が好んでこの「ポピュリズム」を多用するのはいったいなぜなのか。
実は、これこそが今回の問題の根本にある「ポピュリズム批判の本質」とも呼ぶべきものなのであります。
ここでこの結論を申し上げるならば、「ポピュリズム」と言う言葉を引き合いに出し相手方を「ポピュリズム」と批判する側自体が「ポピュリズム」に陥っていると言う真実であります。
しかしこれは、巧妙に仕組まれた「レトリック」のかたまりであります。これを理解するには、一筋縄ではいかないのであります。
- まず一番にあるのは、(くやしいけれど)「大衆」は「彼ら」を支持しているとの共通認識であります。
- 「彼ら」を受け入れることができない「批判者」は、(無意識的に)「大衆」が「彼ら」を支持することを「ポピュリズム」と定義してしまう。
- 実際は、「大衆」→「彼ら」であるにもかかわらず、「大衆」←「彼ら」(これを本来の「ポピュリズム」と言う)と思い込んでしまう。
- 「批判者」の「メッセージ」とは、「彼ら」の「メッセージ」ではなく「彼ら」の「反対」と主張し始める。(つまり「批判者」の「メッセージ」自体は何も存在しない)
- ここで逆転現象が生じる。
- 「大衆」←「批判者」の考える「メッセージ」の「反対」が、「彼ら」の「メッセージ」であると主張ないし思い込む。
- 「批判者」の考える「メッセージ」==「彼ら」の「メッセージ」の「反対」(デマゴーグ)と言う恒等式が成立。
つまり、簡単に言えば、都合のいいように政敵である「彼ら」の「メッセージ」のでっち上げ(デマゴーグ)であります。
この典型的な例が、ここにあるのであります。その場合、ポピュリズムはデマゴーグと結びつく。
いまだに、大学の研究所の所長であり教授であるお方が、これであります。このような「改革幻想」は初めてではありません。小泉構造改革に寄せられた国民の期待と裏切りの前例があります。
日本経済の再生をもたらしてくれるのではないかという国民の期待と支持を背景に小泉さんは「改革」を進め、結局は貧困化を増大させ、格差を拡大させました。「自民党をぶっ壊す」と言って、実際にぶっ壊したのは日本の経済と社会だったのです。
国民が小泉さんに寄せた変革の夢は「神話」にすぎませんでした。「変革神話」に騙された国民が「改革」の夢から醒めてみれば、生活の立ち行かない厳しい現実が待っていたのです。
(大阪ダブル選挙で橋下圧勝をもたらした「改革幻想」と「変革神話」、五十嵐仁(法政大学大原社会問題研究所教授・所長))
小泉改革が、まったくもって「貧困化を増大させ、格差を拡大させ」たとは言えないことは、実証データからも検証済みの事実であります。
それにもかかわらず、文献やデータで議論することを常識とする大学教授からして、これであります。まさに相手を「ポピュリズム」と批判する、そう言う自分自身が「ポピュリズム」と言うドグマに陥っているとしか言いようがないのでありますが、まさにこれこそが「ポピュリズム批判の本質」であるのであります。一体全体、なぜこんなことになってしまったのか。このKAIと同じ疑問を持つ人が、ここにもいました。
もっとも討論というのは、反対意見を際立たせる事が前提ですが、自民党、民主党、その他全ての政党が、大なり小なり小泉・竹中批判で一致していたのはどうしてなのでしょうか。異口同音に「行き過ぎた規制改革を巻き戻す」と叫ぶ様は、「なんかヘン」というのを通り越していささか不気味でした。海外に住み、海外メディアの論調を吸収し、日本国内メディアから遠ざかりながらも池田さんのブログだけはしっかり読んでいた私には、現在の日本経済の低迷は行き過ぎた小泉改革の結果ではなく、小泉政権で端緒がつけられた改革路線を、続く安倍/福田/麻生がしっかり継承しなかったからというのが世論の主流だと当然のように思っていたもので。いったいどこでどのように、日本国内における言論統制(?)がこの政界あげての小泉/竹中批判翼賛状態を生み出したのか、皆目見当がつきませんでした。どなたか事情に詳しい方、ここらへんのからくりの種明かしをご教示いただけませんでしょうか。
(総選挙に関する雑感 - 矢澤豊)
そもそも、この「行き過ぎた規制改革」と言う批判が正当なものかどうか。これが正当どころか、いかに不当で卑劣な欺瞞に満ちた言いがかりであるか、これを統計からきちんと検証した本が出ているのです。
本書では実際に「小泉改革で格差は拡大したか」が詳しく議論されているので、少し追ってみよう。(中略)さて、では、小泉政権の期間はというと、2001年から2006年である。あれ? 小泉改革は格差の広がりと関係ありませんね、という結論が出る。(中略)
いや、「小泉改革で格差は拡大した」というのはジニ係数だの所得格差のことではない、完全失業率の問題だ、という主張もあるだろう。雇用が悪化したのは小泉改革の弊害であるといった議論だ。(中略)むしろ、完全失業率の増加は小泉政権以前から見られるので、小泉改革が失業率を減らしていると言えそうだ。あれ? それでいいのか。では、単に働いていない若者を数えるとどうか。これも1990年代からの増加で小泉政権下での目立った増加はない。つまり、ここでも「小泉改革で格差は拡大したか」というと、どうやらそうではない。
では、話題になっている非正規雇用者の増加はどうだろうか。これも統計を見ていくと、同様に特に小泉政権下との関連はなく、それ以前からの変化が続いていたとしか言えない。では、ワーキングプアの増加はどうだろうか。これは統計の扱いが難しいが、やはり同様の結論が出てくる。ではでは、生活保護世帯の増加はどうか。これも小泉改革との関係はわからないとしかいえない。さらに、ホームレスとネットカフェ難民もと統計値を見ていくと、むしろ減っているように考察できる。結局どうなの?
本稿のテーマは、小泉政権が格差を拡大したのかどうかを検証することでした。え? そうなのか。いや、そうなのだ。それが、各種統計を見て出てくる結論であって、逆に、小泉改革で格差は拡大したという議論は、おそらく、特殊な方法論を使っているか、ごく主観的な主張に過ぎないだろう。
これまで見てところでは、わたしたちの実感とは異なり、それをはっきりと裏付けるデータは、公式統計からは見当たりませんでした。
([書評]不透明な時代を見抜く「統計思考力」(神永正博))
これだけ明白なデータが出ているにもかかわらず、です。
(小泉・竹中批判の不快と克服)
なるほど、かように考えると、ポピュリズムとデマゴーグとは、ポピュリズム批判大好き人間の表の顔と裏の顔と言う同根の概念であることが容易に理解できるのであります。 KAI