宇宙と生命。いま、この二つは共時性に満ちあふれているのであります。
これはアゴラの井上雅彦氏の記事(生命誕生は「まず器ありき」か)で教えていただいたのでありますが、なんとも感動の発見であります。
自己組織化こそ、生命の本質であります。◆何を発見したか
ショスタックらは、細胞として最低限備わるべき要素として、「境界」「情報」「触媒」の三つをあげた。細胞には外界から内部を守る細胞膜(境界)の内側に、細胞の個性を記述する遺伝子(情報)が存在し、さらに内部にある酵素(触媒)反応系が細胞を維持する代謝を行い、細胞分裂により増殖し次世代へと生命をつなぐ活動を維持している。すなわち、これら三要素を持ち合わせる物質を人工的に作り出し、情報の自己複製と境界の事故生産のダイナミクスが連携すれば、その物質はもはや単なる物質ではなく、生命と呼んでもよいのではないか、というのが、ショスタックらの主張である。またこのような存在を作り出すことは、生命誕生の謎を解き明かす大きな鍵となり得る。
菅原グループはすでに、細胞の「境界」となるベシクル(マイクロメートルサイズの袋状分子集合体)が膜構成分子の原料となる分子を外部から加えると、ベシクルがその分子を内部に取り込み、触媒の作用で膜分子へと変換し、肥大し分裂することで自らの数を増やす、「自己生産するベシクルモデル」の構築に成功していた。あとは、このモデルに、いかに情報複製系を持たせるかが課題であった。本研究においては、1)単純な熱サイクルでDNAを増幅できるPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)に着目し、この増幅反応を効率的に行えるように最適化した「自己生産するベシクル」内部で、情報物質に見立てたDNA(塩基対1229個からなる)を増殖させた。2)ついで、ベシクル自己生産に必要な養分となる分子を外部から与えることで、ベシクルを肥大・分裂させた。さらに、この細胞分裂に似た形態変化で生まれた新しいベシクルの内部に、元のベシクルと同じ情報物質(DNA)が分配されることを見出した。
さらに、この過程を注意深く観察すると、DNAの複製がうまく行われたベシクルほど、その後の自己生産が効率的に進行することがわかった。この事実は、「生存に適した個体ほど、より多く子孫を後世に残すことができる」という、自然淘汰の原理を示すものである。このたび構築した人工細胞モデルは、我々が生命体とよぶものと比較して、はるかに単純なモデル系ではあるが、このような振る舞いを示したことは驚きである。この事実は、生命と非生命の境界にあるような原始的な細胞においても、生存競争があったことを想像させる。
(世界初の有機合成物質による“自らが増殖する人工細胞”の構築に成功)
このメカニズムの、原初の発現と駆動が、すべて物理法則のみによって支配されていることが、見事に証明されたのであります。
もちろん、DNAと言う情報系そのものがいかに発現したのか、このメカニズムの発見もまた強く待たれるのでありますが、これもやはり物理法則に支配されているに違いないと想像するのであります。
かくして、生命創造の意志とはすなわち宇宙の意志の賜物であったことは間違いないのであります。
そして、ここに共通するキーワードが、「意味ある偶然」、「シンクロニシティ」、「大気」、「オープンプリンシプル」であります。
私たちの世界は、宇宙から心の世界まで、これらに満ち満ちているのであります。
こちらは、このKAI_REPORTの先日のエントリー。「偶然」の中からその「意味」をみいだしていくことこそビジネスそのものなんであります。そして、この知見の重要性は、これにとどまらないのであります。
それは、フェイスブックにとっても居酒屋にとっても、「地の利」はあくまで「偶然」の産物にすぎなかったと言うこと。ただこれを「意味あるもの」として膨らませることができる人たちと、これに気が付かないまままったく反対の選択をする人たちと、たった二つに別れるだけであります。そして世の中は、後者の人たちが圧倒的に多いのであります。
(フェイスブックが覚醒したとき)
もちろん、これは秋元康もよく理解している。AKB48については僕が優れているわけではありません。偶然です。アイドルの総選挙やじゃんけんは、たかだか次のシングルのセンターを決めるだけのイベントなのに、まだ誰も見たことがなかったから面白がった。他のグループもやっていたらAKB48の総選挙やじゃんけん自体は面白いものではないと思います。
(日本のコンテンツはなぜ海外で勝てないか――AKB48生みの親、秋元康氏が語る)
経済問題も、しかりであります。経済現象とは、大いなる偶然の産物以外の何者でもないのであります。
デフレと言う「偶然」に、いかなる意味をみいだしていくのか。これが、いまきわめて重要なんであります。■ 日本経済の問題は、
■ 価格下落でなく所得下落しばしば、「デフレが日本経済の問題だ」とされる。そこで「デフレ」とされているのは、財やサービスの価格の低下のことである。
しかし、仮に所得が下落せずに価格だけが下がるのであれば、実質所得は増加するから、なんら問題とする必要がない。むしろ、それは望ましいことである。
問題は、上で見たように、所得が下がったことなのである。
つまり、デフレ(財・サービス価格の継続的下落)が問題なのではなく、所得の低下が問題なのである(実際、すべての財・サービスの価格が下落しているわけではない。下落しているのは主として工業製品価格であり、多くのサービス価格は上昇している)。
所得下落をもたらすメカニズムも、しばしば言われる「デフレスパイラル」(製品価格が下がるので、賃金を下げざるをえなくなる)ではない。もしそうであるなら、価格下落が激しい分野の賃金がより大きく下落するはずである。
しかし、実体は逆になっている。1990年から2008年の期間において、保健医療の消費者物価指数は18%上昇している。それにもかかわらず、すでに見たように、医療・介護分野の賃金下落は激しい。
(日本経済の活性化に高生産性サービス業が不可欠)
これについては、KAI_REPORTでも何度も取り上げてきた。
あと、これもであります。マスメディアを含めた世間は、恐らくこのデフレの意味を「言葉」としては理解していても、それが実際に何が起きているのか、まるで分かっていないと思うし、事実デフレとは非常にわかりにくい。
つまり、デフレの反対のインフレは、モノの値段が高くなると言う「痛み」を伴うから、具体的な実感があるのに対して、デフレにはこの「痛み」がない。
これは一見、消費者には都合が良いように見えるけれど、事態はまったく逆。デフレで貨幣価値が上がっても、この貨幣自体の手取り、すなわち収入は逆にじりじりと下降する。手持ちの減ったお金でやりくりしなくてはいけないから、結果的に物価の下落の恩恵は減じられるか、あるいはまったく恩恵とはならないのであります。
これを人間の身体にあてはめれば、物価とは体温であり、収入とは血圧です。この体温も血圧も両方低下すると言う、身体にとって生命を維持できるかどうかの危機的状況にあると言うことであります。
先の衆院選挙の前から、この傾向は顕著であり、いずれの政権にとっても最重要課題であったわけですが、この認識を著しく欠く民主党が政権を取った瞬間、運命は決したのであります。
とは言え、処方箋がないわけではないと、KAIは考えています。
人間の身体であれば、体温を上げようとすれば、まず血圧を上げるしかない。同様に消費者の収入を増やすことが、物価の下落に歯止めをかけることに繋がることになります。当然消費者の収入を増やすことは、その源泉である企業の収入を増やすことであり、これ以外に方法はありません。
(世間はなぜデフレの恐怖が理解できないのか)
いまさらながらKAIは、この問題の根本解決に関心のないメディアと、解決の方向性を示すことのできない現政権には、底知れない心の闇を感じざるを得ないのであります。デフレ肯定論者の根拠が、物価安で実質賃金の上昇を言うけれど、この事態をなんと説明するのでありましょうか。物価下落以上の賃金の下落は、生活破綻に直結しているのであります。しかも賃金の下落は、平均値です。人数的に圧倒的多数を占めるのは平均値以下の給与生活者であり、その影響は計り知れないことが、デフレ肯定論者には理解できていません。
これは、もう少し分かりやすく言うと、賃金の下落は当の本人にとって平均値ではなく絶対値の下落ですから、下がった分はそのまま収入が減ります。これに対して物価の下落は平均値であって、身の回りの生活費がすべて下がるわけではありません。例えば家計の多くを占める家賃であるとか生命保険料はそのままでは下がることはありません。
(デフレ肯定論者に鉄槌を打て)
この闇の中にあって、灯台がはなつ閃光のような明晰さでこの経済と言う「偶然」の意味を発信し続けるのが、池尾和人教授であります。
これは、昨年1月に取り上げた記事の中からの引用でありますが、今回はこちらであります。グローバル・インバランスの拡大によってもたらされた2002-07年の間の拡張局面を除くと、日本経済は、この20年間にわたって停滞を続けていることになる。こうした長期低迷の根本には、従来型の日本の経済システムが内的、外的変化に適合的なものでなくなっていることがあると考えられる。
キャッチアップ型成長段階の終焉(内的変化)
日本経済は、明治維新以来100年超の時間をかけて欧米先進国に「追いつき追い越せ」型の経済成長を遂げてきた。そして、ついに1970年代のいずれかの時点でキャッチアップ段階を完了し、1980年代には先進国化する。持続的経済成長をもたらすものは、生産性の向上につながるイノベーションである。ただし、少なくともイノベーションには、leading-edge(最先端的)innovationとimplementation innovation(模倣)との2タイプがある。後者の効果は、その国の技術水準が世界の最先端のそれから遅れている度合いが大きいほど、大きいといえる(後発性利益)。しかし、そうした遅れがなくなれば、当然その効果もなくなる。
したがって、開発段階においては、模倣による効果が大きいので、それに注力するような態勢をとることが成長戦略として有効であり、実際にわが国は、そうした態勢に適した経済システムを構築してきた。ところが、先進国化した後は、効果の大きな最先端的イノベーションが起こる頻度を高めるような態勢に変えなければ、成長を続けることはできなくなる。
この点での態勢変換(例えば、初等中等教育の普及から高等教育の拡充への重点シフトなど)を、日本は十分に実現できていない。
冷戦の終わりと大競争時代の始まり(外的変化)
1989年のベルリンの壁の崩壊以降、東欧・ロシアの市場経済への移行や中国の開放政策などの結果、市場経済への参加人口は、それまでの約10億人から、約40億人に一挙に拡大した。新規に供給に加わった労働力は、教育レベルも高く、優良なものでありながら、その賃金水準は、日本の数分の1から数十分の1に過ぎない。日本経済は、他の先進国のみならず、これら新興経済(emerging economies)とも競争していかなければならなくなった。とくに地理的に隣接した中国が「世界の工場」として台頭してきたことは、それまでのフルセット型の産業構造(とりわけ国内市場向けの製造業)の存立基盤を失わせるものになった。
したがって、先進国は、知識集約型産業やサービス産業に産業構造をシフトさせていく必要がある。しかし、わが国は、そうした産業構造の転換を十分に実現できておらず、むしろ旧来型の産業構造を何とかして維持しようとした政策対応がとられてきたといえる。
長期的取引関係や企業特殊的な熟練のような文脈的技能を重視する経済システムのあり方が、産業調整コストを非常に大きなものとしてきたがゆえだという面がある。
部分最適化の限界
日本の法人企業部門は、環境変化への対応を怠ってきたわけではない。個々の企業のレベルでは、環境変化への対応を進めてきた。そうした企業部門の調整は、もっぱら単位労働コストの引き下げのために、正規従業員の(新規)雇用を抑制して、パートタイマーや派遣社員などの非正規従業員で代替するという形をとった。そのために、中高年層の雇用は比較的維持されたものの、若年層の失業率が上昇した。また、魅力ある雇用機会が乏しくなったことから、フリーターの増大等の現象がみられるようになった。若年層に対して就労を通じる技能形成の機会が十分に与えられないことは、日本の次世代の人的資本の質の劣化につながりかねないものであって、懸念されるべき事態である。
また、輸出型の製造業は、高機能製品を主力とする路線をとったが、北米市場の規模が縮小するとともに、そうした路線については見直しを余儀なくされている。アジアのボリュームゾーン向けの低価格商品を生産するために、海外企業との提携を含めて、再び生産の海外移転の動きが拡大している。
システム転換に向けた制度的枠組みの見直し等の政策対応を欠いたままでの、個別主体による(部分)最適化は、必ずしも全体最適をもたらすものではなく、むしろ様々な歪みを招来しかねないものである(coordination failure)。
経済システムの再構築
社会システムの形成は、無数の主体の行動が合成された結果としての自生的秩序形成(spontaneous ordering)の働きと理性的制度設計の試みを通じて達成される。理性的制度設計(構成主義<constructivism>の意ではなく、合理的なルールの設計)の不足が、現在の日本にとってボトルネックとなっている。
(レガシー・システム化−−池尾和人)
結局、まともに考えれば誰でも分かる話であります。(4)の増税(だけ)では、どんな逆立ちしても財政危機を脱却することは不可能なんであります。他方、財政危機からの「脱却」の方策は、論理上、
(1)高い経済成長率の実現
(2)低金利の継続
(3)外国政府や国際機関による支援
(4)財政再建(歳出削減と増税)
(5)貨幣発行益の増大
(6)デフォルト(広義で、様々な形態を含む)
の6つにしかない(Niall Ferguson(pdfファイル)による)。もっとも、わが国の場合には、(3)は選択肢にはならないと考えられる。
それで言いたかったのは、(誰も痛みなしで済みそうな感じがあるので)上記の(1)を推奨する人が多いけれども、実は(1)は(2)とセットでなければ有効ではないということである。すなわち、たとえ成長率を高めることに成功しても、同時に利子率も上昇するならば、対GDP比でみた公的債務残高の減少にはつながらない可能性が大きい。
(中略)
しかし、かりに経済成長率の上昇に伴い、多少のプライマリーバランスの改善が見られたとしても、利子率も上昇し、上の関係式の右辺第1項の効果が第2項のそれを凌駕し続けるならば、公債残高の対GDPはむしろ上昇し続けることになる。わが国の場合には、すでに(公的債務残高/GDP)の値がかなり大きなものとなっているので、この可能性は小さなものではない。この意味で、経済成長はそれ自体として重要であるが、財政健全化の十分条件であるかのように考えるのは正しくない。
金利規制が存在していた金融自由化以前の時期には、「利子率<成長率」となる傾向がみられたけれども、金融自由化以降は、「利子率>成長率」となる傾向が支配的である。換言すると、(1)高い経済成長率の実現と(2)低金利の継続の両立は、(金利規制のような)追加的な政策手段がなければ、難しいのかもしれない(この点は、また別の機会に論じたい)。だとすると、(4)により真剣に取り組むか、さもなくば(5)や(6)がより現実味を増すということになるしかない。
(公的債務、経済成長、金利の関係)
残された選択肢は、(6)がありえないとするならば(5)。すなわち、貨幣発行益の増大しかないのであります。
これに反対する方々の理論的根拠の大半が、国債国内市中ベースの消化能力毀損シグナル問題でありますが、いまのユーロ存続危機こそ絶好のタイミングとしか言いようがないのであります。
国債の毀損問題とは、すなわちそれはそのまま円の信認問題であり、戦後最大の円高局面のいまをおいて、これ以上の円大量増刷の機会はあり得ないと認識するべきなのであります。
いえ、これこそが私たちに神が与えてくれた唯一無二、最大のチャンスと、この「偶然」の意味をとらえるべきものであり、いまこそが「行動」のときなのであります。
こう考えると、TPP問題がいかに滑稽な議論であるか、極めてクリアに見えてくるのであります。
TPP問題の本質は、経済圏問題。ユーロ経済圏の危機を目の当たりにして、何を血迷っているのかともうしあげるしかないのであります。
ギリシャがユーロ経済圏を離れて、通貨が自由になれば、すべての問題が解決するにもかかわらず、これができないのはTPPが行き着く先と同じであることが、なぜ理解できないのでありましょうか。
この点においてポンドを存続させているイギリスこそ賢明であり、日本はこの賢明さに学ぶべき大なりなんであります。
かように、経済と言う「大気」の流れだけをみても、この「偶然」になんの意味をみいだし、それにもとづくいかなる「行動」ができるか。
ここに宇宙と生命の中で、生きることの本質があるのであります。 KAI