実に興味深いインタビュー記事がありましたので、ご紹介するのであります。
と言って、ご紹介するまえに前振りであります。
自分たちがやっているビジネスについて、なぜこれがうまくいっているのか、意外とこれを当人たちは理解していないのであります。
例えば、いまKAIが住んでいる不動前駅周辺は、まことに暮らしやすい、理想的空間であるわけでありますが、この不動前駅のすぐ近くに、もう何年か前に居酒屋が開店したのであります。
ちょうど同じ頃、20年以上通い続けた駅のすぐちかくにあった「もつ八」と言うもつ焼き屋が、狂牛病問題を契機に閉店し、替わりに通うお店を探していたときであったのであります。
開店してまもなくのお店ののれんをくぐって店に入ると、満席。
こういったときのお店側の対応いかんが、またの来店を左右するのでありますが、KAIの経験上、もっともダメな対応であったわけであります。
それからまた何年かして、毎朝の散歩道にあるこのお店の前に張り紙があった。
目黒駅と不動前駅の中間に引っ越しました、と。
たしかに繁盛していて、3階建ての鉄筋モルタルで、こどももいる店主の住居兼用では狭すぎたようであります。
しかし、KAIは思った。なんと愚かな。
引っ越すべきは、お店ではなく、店主の住居じゃないかと。
先月、自宅のポストに、お金をかけたカラーの葉書のポスティングがあった。
あの、居酒屋でありました。
思ったとおりであります。
あのまま、いまも住み続ける場所にお店を構えていれば、こんなポスティング(しかもお金をかけた)する必要などさらさらなかったのでありますが、あの満席のとき、客を追い返す対応からして、当然の結末であったのであります。
あのとき、繁盛していたのは、ただ地の利だけ。
これを勘違いしたのであります。
ずいぶん前振りが長くなりましたが、フェイスブックであります。
つくづく、ビジネスとは、偶然のたまものであるのだと思うのであります。ソーシャルデザインという言葉は聞き慣れないかもしれません。フェイスブックの写真機能でその例を説明しましょう。
フェイスブックの写真投稿機能は5年前にできました。当時、エンジニアの数も限られていて、どの機能を実装すべきか慎重になっていました。既に様々な写真投稿サイトはありましたしね。そこで友達をタグ付けする機能を搭載したんです。
結果から言えば、どの機能よりもタグ付けの機能が重要だったことが後から分かりました。ほんの数カ月で数ある写真サイトの中で一番に躍り出ました。これが我々にとってのインスピレーションになりました。「これが人を中心に考えるということか」とね。
(我々はソーシャルデザインを頑なに守り続ける ダン・ローズ副社長にインタビュー)
この偶然とは、「意味ある偶然」、すなわちシンクロニシティであります。
フェイスブックにとっての、写真投稿機能であります。
この写真にタグ付けすることで、自分たちがやっているビジネスの本質が、いったいなんであるのか。これに気づくきっかけを、彼らは得るのであります。
ソーシャルデザインの肝、「これが人を中心に考えるということか」と言うことに、彼らは目覚めることができたのであります。
この「人を中心」とは、ネットにあふれかえるあらゆる情報に、人の名前というインデックスをはればいいと言うことであったのであります。
すなわち、これを「人間関係」と言うのであります。
この「人間関係」について、すでにここで何度も言及しているのでありますが、この一部を再掲するのであります。
ここで重要なのが、冒頭でご紹介した移転した居酒屋の失敗であります。これを読んでいただければ、グリーの山岸くんの存在が、グリーの急成長と高収益構造を支えていると言う事実が、きわめてクリアにご納得いただけるのであります。
ひるがえって、ミクシィ。ミクシィには、山岸くんに相当する人材がいなかった。
ただそれだけなのであります。
さて、ではどうするか。
これを考える上で、任天堂の宮本茂、この人物の存在こぞ、これからのSNSの世界を占う上できわめて大きなヒントを与えてくれるのであります。
山内溥と親父繋がりと言うことこそ、今回のキーポイントなのであります。1977年に金沢美術工芸大学を卒業。専攻は工業デザインだった。同年、小さい頃から玩具に興味を持っていたため、当時トランプを柱とし色々とやっていた玩具会社の任天堂に興味を持つ。デザイナー枠で任天堂は募集していなかったが、宮本の父は当時の任天堂社長山内溥と友人だったこともあり、面接の場を得て工業デザイナーとして入社する。
(宮本茂、Wikipedia)
SNSとは、いったいなんであるのか。「人間関係」以外の何ものでもないのであります。
SNSを運営する会社に必要なことは、この「人間関係」とはいったいなんであるのか、この本質を理解する人間がいるかどうかであります。
任天堂で言えば山内溥が言い続けたように、所詮「花札屋」にすぎないことを決して忘れてはいけないのであり、これを宮本は、外さなかっただけであります。
え?任天堂はSNSじゃない?
いえいえ、みなさん、トランプ、花札、一人でやりますか?
たまたま手段がゲームであっただけで、この会社の本質は「人間関係」、すなわちSNSであるのであります。
「人間関係」の手段が「ゲーム」であるのか、YouTubeの「動画」であるのか、Facebookの「寮の部屋」?!であるのか、この基本的な認識なくして、SNSは成り立たないのであります。
(がんばれミクシィ!)
不動前駅のすぐ近くにあったころ、近所の住民はもちろん利用していたと思われるけれど、中心は会社帰りのサラリーマン。駅の近くでちょっとやって、それで電車に乗って帰宅する。こんな彼らが、駅から離れた場所に移転した店に行くはずがないのは、すこし頭を使えばすぐわかること。しかし、繁盛しているときはこれがわからない。
フェイスブックは、これに気づいて、ミクシィは気が付かない。
これとは、すなわち自分たちにとっての「地の利」とはなんであるかであります。
「人間関係」を抽象的にとらえるからわからなくなるのであります。
この場合、「人間関係」とは、居酒屋にとっては「駅」であり、フェイスブックにとっては「名前」であります。
フェイスブックをご利用の方は、もうお気づきでしょう。フェイスブックとはこの知った人の「名前」の発見がすべてなんであります。
居酒屋にとって、たまたまこの駅へのルートに立ち寄るお店がなかった。単に「駅」つながりにすぎなかったと言うこと。
そして、この知見の重要性は、これにとどまらないのであります。
それは、フェイスブックにとっても居酒屋にとっても、「地の利」はあくまで「偶然」の産物にすぎなかったと言うこと。ただこれを「意味あるもの」として膨らませることができる人たちと、これに気が付かないまままったく反対の選択をする人たちと、たった二つに別れるだけであります。そして世の中は、後者の人たちが圧倒的に多いのであります。
「ソーシャル」なんてカタカナで書くからわからなくなる。「社会」でいいのであります。
「名前社会」がフェイスブック。「駅前社会」が件の居酒屋。「ゲーム社会」がグリーとDeNA。ではミクシィは?
「掲示板社会」。 KAI