KAIに並ぶウチダウォッチャー、404BlogNotFoundのDanさんがなかなか面白いことを書いています。
教育論とは、教育制度論、教育者論、学習者論と言う、この三つの論で成り立っていると言うのが、KAIの教育論における基本的スタンスであるのでありますが、このDANさんのお話は、教育制度論であり、ウチダ先生のは、学習者論。歯車がかみ合っていないのであります。ふむ。
ハァ?第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
あきれた。師は師でも詐欺師というやつだろ、これは。第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」
具体例を挙げて説明しよう。
あなたは、誰に教わって自転車に乗れるようになりましたか?
あなたは、誰かに自転車の乗り方を教えたことがありますか?
そうだとして、彼/女が自転車に乗れるようになったのはあなたのおかげですか?
(師は詐欺師の師)
自転車の乗り方を覚えるのは、社会教育と言う教育制度論の範疇。社会に、まわりの誰も自転車にのる人がいなければ、決して子どもが自転車にのることを覚えることはないのであります。
これに対するウチダ論は、社会の人たちや、学校教育と言う現場とは関係なく、つまり学校の生徒に限定されることなく、学習する者一般に通ずるお話であるのであります。
すなわちこれが、教育論における学習者(被教育者)論であるのでありますが、さてここで、このウチダ論は真っ当であるやいなや。
第一について。KAIは、これは「無知の自覚」ではなく、「好奇心」以外の何者でもないと考えているのであります。
第二。師とは、KAI的には「教育者」であるのでありますが、「あ、この人が私の師だ」と言う直感の本質は、この師自身にとてつもない「好奇心」を感じて、この人についていったらめちゃくちゃ面白いところに自分を連れて行ってくれる、と言う期待感をおいて他にないのであります。
第三こそ、KAIの真骨頂、オープンであります。教育者と被教育者との関係とは、決して一方通行でもなんでもないのであります。教育者にとっても、学習者の存在があっての教育者であり、教育とは共時的関係の中で行われるものなのであります。
ですから「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」と言うセンテンスを、KAI的に置き換えれば、こうなる。
先生、先生はなんでこんなに面白いんですか?この秘密を教えてくれるまで僕は家に帰りません。 KAI