バカはいかに思考するのか−−実証研究編

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今回の「ウソつき」バカの思考方法は、まさに「バカはいかに思考するのか」を理解するためにうってつけの、最大の具体的実例となるのであります。

いったいこのウソが「ばれない」世界とは、何か。それは、いってみれば負の「安心社会」。閉鎖的、閉じた社会であって、この中に住み続ける限り、この社会の住民にとってウソの「ばれる」心配のない社会。もちろん当の本人にとって、自分がこの閉じた社会の中にいる自覚は、もとよりあるわけではないのであります。
人はなぜ「ばれる」ウソをつくのか?

約2年前のエントリーではありますが、このエントリーは一連の「バカの思考過程」を見事なまでに言及しているのであります。

「ばれない」世界、すなわち、彼らは、きわめて狭い村社会の住民として「思考のフレーム」の中にいる。

このように、自らの頭で思考するのではなく、村社会の住民であることを確認することが、すなわち「思考」と理解している彼らにとって、いま、自分はどの「村」にあるかの認識が極めて重要なんであります。

不思議なことに、このバカのまわりには、コクーンにも似た岡田とたった二人の「村」が形成されている。

まもなく、このコクーンが破られ、彼らの「思考」が破綻するのは、いまさらこれに言及するまでもないのであります。

次なる、事例研究。

菅が地震や原発事故を起こしたわけでもなく、現状では誰がトップだったとしても今よりめざましくすばらしい対応ができるとは到底思えず、特にそれが、福田や安倍を次々に繰り出した自民党じゃぁねぇ、だいたいこんな状況下火中の栗を拾って総理をやりたいヤツが他にいるんか、信じられん、という私の感想と「ツイッター民意」はかなり多くの人に共通していたようだ。

それなりに、日本では民主主義が機能しているということだろう。
ツイッター民意

まったくもって不可思議な、「ツイッター民意」なるものもまた、村社会の「思考のフレーム」。

テレビと言う「枠」を、単に「ツイッター」に変えただけで、まったくもって自分の頭で「思考」することができない。

海外から発信する人間の典型ではありますが、日米の情報格差と言う、村社会の情報格差を利用することで、日本とは異なる村社会に同調することでもって、これを自らの「思考」となすとすることを生業にしてきた方々の、典型的思考パターンと言えるのであります。

(今回は、日本の民主主義が機能「していない」、典型的事例なんですけどね、これが「思考」できないんであります)

そして、こちらの事例。

さて、ここで心して冷静にならなければなりません。菅政権は確かにやり口が下手で、特に政治主導といって役人を活用しないなど僭越にもほどがある、とんでもないことです。しかし、原発の事故対応については、今が仮に自民党政権だったとしても、東電も安全委員会も、事実隠し、責任逃れはしていたはずですから、福島の処理は手こずったでしょう。

もちろん民主党政権は、東北大震災の対応以外でもいろいろと失敗をしていますから、民主党にとっては今後も苦闘が続くでしょう。我々は、今の日本の何が問題なのか、よくよく考えて判断していかなければなりません。日本が抱える大問題は、実は3・11以前から変わらずそこにあって、それが震災で増幅されたのだと考えるべきです。
内閣不信任案否決を受けて〜日本の民主主義が「小沢一郎」から卒業した日〜

この文章には、事例研究的にきわめて重要な、二つのポイントがあるのであります。

それは、この加藤紘一と言う男が、いかなる村の「思考のフレーム」に所属しているか。これを研究する上で、おおいなるヒント満載の文章なんであります。

まず「自民党」村。彼は、この村にあっても震災対応はたいして変わらないと書いている。もちろんこれは、自民党の不信任案の趣旨説明を読めば、まったく異なる立場にあることは一目瞭然であります。にもかかわらず、これを否定するかのようなことを書くのは、すでにこの男が「自民党」村にはいないと言うことであり、「民主党」村、すなわち次の衆議院選挙では、鵜の目鷹の目、情況によっては民主党から出るつもりで準備していることを、明確に示すものであります。

そしてもう一つが、「小沢一郎」。

これについては、加藤紘一以外にも多くの人々がこれを言及しているけれども、一様にこれもまた、「思考のフレーム」から彼らが脱することはないのであります。

すなわち、「小沢一郎」村とは、メディアを始めとして彼らが自ら生み出した「思考のフレーム」であります。

小沢と言う一人の男が何を考えて行動しているか、自らの頭で「思考」することを放棄し、ひたすら「小沢一郎」村と言う「思考のフレーム」の中の住民でい続けることを、ただむやみに選択するのであります。これにとらわれているのは、他の誰でもない、「小沢一郎」村の住民だけであることに、誰も気づかないのであります。

決して、小沢は、終わりではない。民主党とは、「小沢一郎」村とはまったく違うところで、小沢一郎を必要としているのであります。すなわちそれは、小沢一郎の「経験」なんであります。

選挙が典型でありますが、野党との丁々発止の政権運営、これがいまできていないことが、民主党の一番の困難の原因なんであります。

なぜ民主党は、選挙で連戦連敗なのか。決してこれを執行部が総括できないのも、実はこのわけがここにあるからであります。

「民主党」が、次なる衆議院選挙に打って出るとき、小沢一郎の存在があるやいなや、きわめて重要なんであります。もちろん、小沢が選挙に優れて力を発揮する能力があるとは、KAIは微塵も思ってはいないけれど、いまの「民主党」村と言う「思考のフレーム」にとっては、不可欠であることはまず間違いないのであります。

これを一番に理解し「思考」しているのが、鳩山であり、真逆があの「バカ」であります。もちろんいずれも「バカの思考過程」に違いはないのでありますが。 KAI