バカはいかに思考するのか

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なぜ、こんなにまでに「バカ」国民が増殖してしまったのか、真面目に考察するのであります。

と、いきなり結論でありますが、その直接の原因は、21世紀社会の「情報爆発」であり、これに対する人類の「防衛反応」であります。

ここで、「日本」ではなく「人類」とあえて言うのは、その「情報爆発」も「防衛反応」も、決して「日本」に限った局所的現象ではなく、地球規模の問題なんであります。ただこれが「日本」では、結果的に国民の「バカ」化と言う形で顕在化した、ただそれだけのことなんであります。

そもそも、人間の「思考」とは、なんであるか。

これを考察する上で重要なヒントになるのが、「思考」と、その対を成す概念、「感情」との比較であります。すなわち「感情」とは「内在性」であり、「思考」は「外在性」であると言うこと。これがきわめて重要となるのであります。

人は、いかに「思考」するのか。

それはまず、「思考のフレーム」と言う「思考法則」の世界の中で、人がものごとを考えると言うことを理解する必要があるのであります。この「思考のフレーム」とは、その世界におけるコミュニケーション言語でもあるのでありますが、「思考」における価値判断の枠組みであり、その世界の「ルール」がこれですべて決まる力を持っているのであります。

さて、この「思考のフレーム」とはいったいどこにあるのか。これを説明するのが、さきほどの思考の「外在性」。つまり、思考する本人の中にではなく、その本人が関係する「他者」との関係の中にあると言うことなんであります。これを具体的に言えば、学者であれば、学者の思考とは、「アカデミズム」社会と言う世界の「思考のフレーム」の産物に他ならないのであります。

そこで、本題であります。

「情報爆発」以前の、思考過程とは。

それは「常識」と言う「思考のフレーム」による思考以外にはないのであります。もちろんこの「常識」はひとつではない。「重層」であり、かつ「多様」なんであります。これが「アカデミズム」社会を始めとしたさまざまなコミュニティを横断して「思考のフレーム」を形成していると言えるのであります。

ですから、私たちは、自分の頭と言う「自分自身」の考え方によって「思考」していると思いがちですが、実際はそうではなく、所属する社会の持つ、より大きな「思考のフレーム」の中に組み込まれて、その枠組みの中でしかものごとを考えることができない。そう言うことなんであります。

また、そうであるからこそ、「思考過程」を社会で共有することができるし、コミュニケーションも成立するのであります。

例えば「論理的思考」などといっても、これはあくまで「思考のフレーム」の中でのみ通用するものであり、もしこの「思考のフレーム」で処理しきれない事態が生じたときは、この「論理的思考」自体が用をなさなくなるのであります。

すなわち、これが21世紀のインターネット社会と言う「情報爆発」社会で起きていることであり、これに対して私たちはいかなる「防衛反応」をしているのか。これを理解することこそ、今回の「考察」の結論となるのであります。

この「防衛反応」の顕著な例が、あの「北アフリカ・中東における政変」であります。

彼らがとった「防衛反応」とは、「思考のフレーム」の拡大であり、再構築であります。「情報爆発」を「思考のフレーム」の枠の中に取り込むためには、「枠」自体を「情報爆発」をそのまま処理できる大きさにまで拡げるしか手はないのであります。そしてこの結果が、いままでの政治体制自体の否定に繋がった。そう言うことなんであります。

一方この「情報爆発」の主役であるアメリカを中心とした欧米社会はと言うと、彼らの「思考のフレーム」には最初からこの「情報爆発」を処理する「枠」が含まれていた。それがYAHOO!の情報インデックス化と、Googleのすべての情報を整理しつくすと言う野望であり、これまで目に見えない不可知とされてきた私たちの人間関係でさえ、Facebookはこれを白日のもとに「整理」しようとするのであります。(余談でありますが、Facebookを利用する方々は、自分の人間関係が、赤の他人に「捕捉」されていることの恐怖感をなぜ感じないのか、KAIは不思議でしかたないのであります)

なぜ彼らの「思考のフレーム」がそうであったのかは、「キリスト教文化」が強く影響しているとだけ申し上げて、これは別の機会にご説明するとして、肝心要のわが「日本」はいったいぜんたいどうなっているのか。

それをご説明するならば、従来からの日本の「思考のフレーム」とは、言ってしまえば「テレビ」であり、テレビ画面の「枠」こそ「思考のフレーム」と化していたのであります。それも、「自分自身」でものごとを考えるのではなく、「テレビ」の中の「考え」に同調することがすなわち、自分の「思考」であると信じてきたのであります。

これは、前回のエントリー「知性だけが救いだ」の中で取り上げた「村治主義」とも直接繋がる話でもあるのであります。すなわち「村」社会で生きてきたと言う事実は、そのまま「村」社会の「思考のフレーム」そのものの中に生きてきたと言うことであり、「テレビ」こそこの「村」としての機能を果たしてきたのであります。

こんな中で「情報爆発」が起こった。しかし、これは「テレビ」村ではなく「インターネット」村で、起こった。そしてこれは、いまのいまも進行中の出来事なんであります。

果たしてこの「情報爆発」にわが「日本」は、「テレビ」村の「思考のフレーム」をそのまま適用しようとするのであります。

「オビに短しタスキに長し」。なんと「日本」は、一生懸命タスキでオビを締めようとしはじめたのであります。

しかも、自分の頭で「思考」するのではなく、「思考のフレーム」に自分が所属(同調)することが「思考」することであると勘違いしているから、「論理思考」の体をなさない。いわゆる、「風」とか「空気」と言う「思考のフレーム」そのものに、ただ流されていくだけであります。

バカはいかに思考するのか。

これこそ「バカ」がいかに「思考」するのか、の答えであります。

そもそもにおいて「バカ」は「思考」するのではなく、「村」に「所属」すると言うかたちで「思考(のフレーム)」に「同調」することでもって、これを「思考」したと考えているのであります。

もっと言えば、自分はどの(小さな)「村」(「思考のフレーム」)に所属するべきか、鵜の目鷹の目であたりをみまわす風見鶏以外の何者でもないと言えるのであります。

では、この「バカ」につける薬は、ほんとにないのでしょうか。

これがあるとすれば、それは「テレビ」村の中に「インターネット」村の大きさを持つ「思考のフレーム」の構築であります。

それがNHKや既存のキー局で実現されることはあり得ないでありましょうが、インターネットテレビの方向性とはこれ以外にはないのであります。恐らくこれが孫正義によって実現されれば、KAIはもう文句はないのであります。 KAI