末期的シンドロームの本質

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このとき、こう発言したならば・・・。

すべて私の責任です。残念ながら情報が上がっていなかったためですが、国家存亡の危機に際し、官民一致でことにあたる体制の重要性を肝に銘じ、二度とこのようなことがないよう、全身全霊で取り組みます。

しかしながら、現実は・・・。

 枝野氏は「名古屋−東京間は車を飛ばしても走れる状況だ。なぜ自衛隊に頼んだのか。自衛隊機が飛ばないなら自動車を飛ばすのは当然だ。常識ではないか」と強弁。「北沢防衛相は(輸送機について)被災者救援の輸送を最優先すべきだと指示していた。被災者救援に総力を挙げていた状況だったので防衛相の指示は妥当だった」と正当性を強調し、清水氏を輸送機にいったん乗せた自衛隊に対して「防衛相決裁を受けずになぜいったん飛び立ったのか、逆に不思議だ」と不快感を示した。
東電社長・自衛隊機利用問題 枝野氏らが責任転嫁 「車を飛ばすのが当然だ」 実際には不可能

まさに、「責任を取りたくない」症候群なんであります。

オレは責任とりたくないんだ!
人はなぜ「染まる」のか?

なぜ「責任をとりたくない」のか、その理由は明白であります。

「自分自身の問題」であるかどうか。ただ一点、ここにあるのであります。

一方で、実に、責任の取り方の見事なまでの見本が、こちら。

 東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸にあって、岩手県普(ふ)代(だい)村は死者ゼロ、行方不明者1人にとどまった。被害を食い止めたのは、かつて猛反対を受けながらも村長が造った高さ15・5メートルの防潮堤と水門。そして震災当日の消防士の献身的な行動だった。

 普代村は明治29年と昭和8年の大津波で計439人の犠牲者を出した。

 昭和40〜50年代に普代村の村長を務めた故・和村幸得さんは防災対策に力を入れ、同43年、漁港と集落の間に防潮堤を、同59年には村を流れる普代川の河口から600メートルの場所に水門を完成させた。

 2つの工事の総工費は約36億円。人口約3千人の村には巨額の出費で、15メートルを超える高さの必要性が疑問視されたが、和村さんは「明治29年の大津波は高さ15メートルあった」という言い伝えに基づき、譲らなかったという。

 しかし防潮堤と水門だけでは村人を救うことはできなかった。3月11日、地震と同時に水門脇のゲートの自動開閉装置が緊急停止したのだ。ゲートが開いたままだと、川を逆流してきた津波が村の中心部をのみ込んでしまう。
巨大防波堤で死者ゼロ 岩手県普代村 村長の信念と消防士の献身が結実
 久慈消防署普代分署の副分署長を務める立臼勝さん(50)ら消防士3人は、地震発生直後、大津波警報の出る中、ゲートに向かった。故障したゲートを閉めるには水門の機械室で手動スイッチを使うしかないからだ。津波の危機感はあったが、「まさか、あれほど大きな津波がくるとは思っていなかった」。

 3人は機械室に到着するとすぐにゲートを閉めた。立臼さんは、引き揚げようと消防車に乗り込んだとき、背後から「バキ、バキッ」と異様な音がするのに気付いたという。普代川を逆流してきた津波が防潮林をなぎ倒し、水門に押し寄せてくる音だった。消防車のアクセルを踏み込み、かろうじて難を逃れた。

 漁港は大きな被害を受けたものの、防潮堤に守られた村中心部は無傷。津波は普代川をさかのぼり水門を越えたが、住宅地や小中学校までは及ばず、河原の木々が倒れた程度だった。

 立臼さんは「水門で9割方の水は止まり、流れ込んだ波も強い雨が降った程度ですんだ。もし水門が10メートルしかなかったら被害の多かったほかの地区と同じように壊滅していたかもしれません」と振り返る。
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和村幸得さん。「村長」の仕事(責任)とは何か、彼がこれをどのように考えていたのか、この記事を読めば一目で分かる。彼の考える「村」とは、いまいる「村民」はもちろんのこと、これから「村民」となる人々も含めた末代におよぶ「村民」にとっての「村」であったのであります。

そして、村長のこの「決意」が、大きく時間の隔たりを超え、消防隊員に伝わって、村人の命を守った。

「末代におよぶ村民の命」までをも、「自分自身の問題」として考える。

リーダーがいかなる言辞を弄しようとも、人々はこの人物が考えている「自分自身の問題」がいかなるものか、瞬時に感じ取ることができるのであります。

また、この人々の気持ちを、優れたリーダーであればまた同様に感じ取ることができるし、凡庸なリーダーは微塵も感じることはない。

と言うよりなによりも、これを感じることのできない人物を、私たちはリーダーに選び続けている。つまりは、末期的シンドロームの本質とは、実にここにあるのであります。 KAI