週末テニス、日曜のコートに異変が。
コートのところどころに黄土色の粉が風紋を描いて張り付いているのであります。もちろん、それが花粉であることは承知の助。にもかかわらず、気象庁に問い合わせた人々と同じように、これが放射能になぜか見えてしまうのであります。
同様に、空気もまた、快晴の青空であるにもかかわらず、なぜかくすんで見えてしまう。
心の中を、見えない重くもやもやしたものが占めたまま、いつまでもすっきりしない。
このところ、この、長い人生の中で一度として感じたことのない種類の、不安な気持ちの正体を、ずっと考え続けているのであります。
それは、パレスチナにおけるある種戦時下にある空気のようにも思えるし、病院でまもなく診察結果の病名を告げられる前の入院患者でもあるように思えてくるのであります。
この「不穏の大気」とも呼ぶべき、動かしがたく、重い、大きな気の流れの中に身体(み)を置きながら、これにどう合わせていけばいいのか、微妙にこの感覚がつかめない。
こんなとき、思わぬ文章の中に、この問題の本質が見えてきた。
国債問題もまた、動かしがたいまでに大きく膨らんだ負の大気ならぬ巨大借金。進むにせよ退くにせよ、もはや選択の余地は一切ない。換言すると、「震災国債の日銀引き受けの検討」というテーマには責任転嫁の余地はない。可とするにせよ不可とするにせよ、その帰結に対する責任は最後まで自分たち国会議員がとる以外にはないという事実を踏まえた上で、国会で正々堂々と審議してもらえばいい話である。個々の国会議員に決定に対して責任をとる覚悟が求められるが、それは当然すぎることである。マクロ経済学の知識がなかったというような言い訳があとで通用する事柄ではない。かりにうまくいかなくても他人の責任にするわけにはいかない。
(「震災国債の日銀引き受け」論に思う)
恐らくこれも震災原発問題や我欲社会と共時的関係にあることは疑いようもないのであります。
こう考えると、「その帰結に対する責任は最後まで自分たち国会議員がとる以外にはないという事実」こそ、「不穏の大気」を生きる方法を理解するための、究極のヒントとなるのであります。
別に国会議員にすべての責任をなすりつけようと言うわけではない。国会議員を自分自身に置きかえればいいのであります。
こういった意見こそ、「不穏の大気を生きる方法」がまったくもって理解できていない、すなわち自分自身の問題としてとらえることのできない、評論家としての意見なのであります。逆にいうと、政府が強制的に日銀に引き受けさせることが特別なのです。国会決議で日銀に引き受けを強制するのは「国債が通常の入札では消化できない」というシグナルを市場に送って長期金利の上昇をまねくおそれが強い。さらに井上さんもいうように、財政規律が失われて財政破綻が早まるリスクも大きい。
(意味不明な「国債の日銀引き受け」)
政治が、「意志」を持つかどうかの問題なんであります。『「国債が通常の入札では消化できない」というシグナル』とは、まったく180度反対の、政治の強い「意志」と言う「メッセージ」こそ市場への強いシグナルとなるのであります。
とはいえ、これも、政治家が、「その帰結に対する責任」を、最後までとる覚悟あってのこと。
いまの私たちの、最大の不幸とは、この責任をとる政治家の決定的不在です。
しかし、これをなげくこともまた、自分自身の問題に返ってくるのであります。
「避難したい人と、避難しない人、人間の格が問われていると思う」の中で取り上げた郡山の主婦のように、避難範囲を50キロに拡げて国に責任を負わせたい気持ちも、よくわかる。
しかしそうではなく、いまは、私たち一人一人が、自分自身の与えられた責任を真正面から引き受けることでしか、この「不穏社会」を生き延びることができない。これを理解して初めて、復興へのスタート地点に立ったと言えるのではないかと、KAIは考えるのであります。 KAI
おっといけない。週末テニスは、結果だけ。土曜、4-6、4-6、1-3、日曜、2-6、6-2、5-7、0-1(4-7)。