不運の構造

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これも正統性問題としか言いようがない。

ニュージーランドで起きた地震による日本人の被害は、地震と言う天災によるものとは言え、不運と言うだけでは、決してすまされない問題なんであります。

■ニュージーランドの現地で、インタビューに答えた建築物の専門家によれば、崩壊した建物は現在の厳しい耐震基準前に建てられたものであると証言している。

■昨年9月に同じ場所で大地震が起きている。

気象庁によりますと、ニュージーランドの南島では、去年9月、今回の震源地の西およそ50キロのクライストチャーチ近郊を震源とするマグニチュード7.0の大地震が起きていて、今回の地震は余震とみられるということです。
(“去年9月の地震の余震か”、2月22日 16時17分、NHKニュース)

この二つの事実だけをもってしても、人災の可能性が極めて高い。

日本も、学校の建物が、数千棟規模で耐震基準を満たさないと警告され、これが放置されたままではあるけれど、今回崩壊したビルは、このわけが違う。完全な倒壊、崩落であります。当然こうなることは予測されてしかるべきビルであったのであります。こんな危険極まりないビルに、多くの人が集う学校があったのであります。

そのうえ、半年前同じ場所ですでに警告となる大地震が起きているのであります。

こう言う回避できたかもしれない不運には、一つ大きな特徴があるのであります。

それは、被害者自身が意識的に「選択」した結果の延長線上に、この不運があると言う厳然たる事実であります。すなわち、この海外の学校を選ばなければ、被害にあうこともなかった。

古くは、日航123便の大惨事も、尼崎JR大事故も、偶然に乗り合わせたとは言え、この飛行機や電車を選ばなければ、悲惨な運命にあうこともなかった。

これは、決して被害者の選択に責任があると言っているのではありませんので、誤解しないでいただきたいのでありますが、当事者や当局に被害を回避する責任があったと言うことは、見方を変えればそれは、被害者にもこの不運を回避するチャンスがあったと言うことに他ならないのであります。

またまた、わかりにくいもの言いですまない。

これもまた、正統性問題とは、このこと。

被害者自身が、その問題の中に、当事者と言う自分自身の問題として身体をおけば、自ずとその問題の答えが見えてくる。

この飛行機や、この電車、あるいはこのビルに居合わせることを、身体で感じると言うこと。この居合わせることの危機を、身体で感じること。

これを無意識の中で感じて、飛行機ではなく新幹線を、電車は1両目ではない車両を、地震の心配のない場所を、無意識に「選択」する。つまりは、そう言うことなんであります。

そして、「邪悪」社会に負けない生き方とは、これのこと。

そして言えば、「不運」とは、選択。選択しなければ、不運もない。この不運は、自らが選択していると考えれば、話は簡単。不運を選択しない選択。これをすなわち不運の構造と呼ぶのであります。 KAI