正統性のお話をしようと思ったけど、その前にこの話題から。
いまや電子メディアなるものが花ざかりであります。しかし、かつてFD(フロッピーディスク)と言うものがありましたが、容量はいまから考えればまるでたいしたものではないにもかかわらず、いまここに記録されたデータを読もうとしても、簡単には読むことができないのであります。ほぼ同じタイピングで『iPhoneでソニーの電子書籍読めません 採用を拒否』との記事が朝日新聞のサイトに掲載された。それによるとアップルは「他社経由で購入した電子書籍を読めるソフトを採用するには、アップル経由でも同じものを購入できるような仕組みにすることを求めている」そうだ。同じ内容の記事はWall Street Journal電子版にも”Apple Rejects Sony E-Book App”として掲載されている。
同時期に起きた二つの出来事は何を意味しているのだろうか。利用者の側から市場に要求することは次の三点であろう。
1. どんなネット書店からでも、希望する電子書籍を購入できる
2. どんな電子書籍端末でも、購入した電子書籍が閲覧できる
3. 年月が経ってもこれらの状況が継続されるつまりネット書店と電子書籍端末の間で、相互運用性(互換性)が保証されることである。前の記事にも書いたように、これこそが電子書籍市場を拡大していく決定的な要因である。
その視点に立つと、一見独善的に思えるアップルのソニーへの姿勢は間違ってはいない。両社のネット書店の品ぞろえを一致させるべき、という立場からの要求だからだ。ソニーも対抗するのなら、アップル側の電子書籍をソニー側で販売できるようにすべきと要求すればよい。
(電子書籍市場の混迷 続き)
かように、電子メディアには、上記引用の、「3. 年月が経ってもこれらの状況が継続される」保証などまったくないと言う、致命的欠陥があるのであります。
このために電子メディアのユーザーは電子メディアが新しくなるたびに、古い媒体から新しい媒体へのコピーを余儀なくされるはめになってしまったのであります。
ひとたびこの作業を忘れてしまうと、コンテンツは「死蔵」ならぬ「死滅」させてしまうしか方法がないのであります。おまけにコピー回数も大半が制限を受けるから、実質的に、電子メディアに継続性を求めることは、原理的に不可能であると言うべきものなのであります。
もちろん、こんなことは誰にも知らされることなく、広告宣伝が行われ大量に普及していくわけでありますが、つまりはそう言うことであります。
自炊などと言って、電子メディア化したのはいいけれど、ではそれを記録した媒体をうっかり引き出しに入れたまま、20年後、いや10年後、読もうとしても、100%読めない。
ひるがえって書籍。その心配が、まったくもって一切ない。この価値は、当たり前すぎてだれも省みないけれど、その本質には計り知れない意味があるのであります。
で、本題の正統性。
民主党菅政権も、エジプトムバラク政権も、問われているのは、この正統性。
いずれの政権も憲法に従って得た権力であるにもかかわらず、国民はこれを激しく否定し始めたのであります。
超法規的事態が考えられるエジプトに対して、残念ながら(と言ってはいけませんが)、日本ではそこまではいかない。
そもそも、正統性とは一体なんであるのか。
この説明では、なにがなんだかわからないと思うのでありますが、正統性の本質を理解するに一番の事例は、憲法のない時代から憲法のある時代への変遷であります。正統性(せいとうせい、英語:legitimacy)は、政治権力が最終的に支配として確立し、権威化されることを正当化する概念をいう。
概要
権力移譲などの場面においては、前政府体系の権力を引き継ぐ作業が行われ、被支配者向けに倫理的・道徳的に論理を準備することで、過去からの政治的支配の連続性や正当性が担保されるようにすることがある。歴史的な連続性に基づく正当性を示すために、たとえば中国史においては、新たな国が興るたびにその国の正統性を証明するために歴史書が編纂されている。また、法的手続きとして定められた正しい(合法的)手続きをとったかどうかという点で正統性が論じされることもある。具体的にはベトナム戦争やイラク戦争では、国連決議に基づく正統性が問題となった。なおマックス・ヴェーバーは、正統性を分析する際に、伝統的、カリスマ的、合法的正当(統)性の三分類で、これに基づく支配の特質を考察した[1]。
(正統性、Wikipedia)
憲法のない時代に新しく憲法を生み出す作業が依ってたつ憲法は、原理的にない。
ないにもかかわらず、憲法は生み出され、以後これを絶対的なものとして強制されることになるのであります。
このプロセスを論理的に説明しようと思えば思うほど、憲法を生み出す、原理的にはないはずの、「憲法」の存在を否定するわけにはいかないことに、私たちは気づく必要があるのであります。
これがすなわち、正統性であり、このメタ憲法とも呼ぶべき存在なのであります。
この正統性が、憲法を生み出すことができるのであれば、この憲法を否定し超えることもできると考えることに何の問題もないのであります。
これを「オーバールール」と混同してほしくないのですが、「オーバールール」とはこれはあくまで「オーバールール」と言う「ルール」の一つに過ぎないのであります。
正統性は、ルールではない。
そもそも、世の中のあらゆるルールには、その依ってたつルールそれぞれの「正統性」なるものがあるのであります。
であるにもかかわらず、いまや私たちは、憲法を始めとした、ルール、すなわち「律」の世界の住民として、あらゆることの価値基準を、この「律」そのものにおくことに慣れきってしまったのであります。
しかし、エジプト国民は、これに疑問をもち行動を開始した。
彼らの、この依って立つものこそ、「正統性」以外の何者でもないと、KAIは考えるのであります。
正統性の意味とは、ともすると、権力維持の側面でのみとらえがちですが、権力を否定する根本原理ともなる、最も重要な概念なんであります。
であるからして、これがそのまま正規に教育されることは、一切ない。ただ教育されるのは、個人レベルまで落とした、道徳や倫理の顔をしたルール遵守の教育のみ。この結果は、見事なまでの、ルールを守ることが「善」、ルールを破ることは「悪」と言う、次元の極めて低い価値観の一方的植え付けであります。
今回の大相撲八百長問題。
この大相撲と言う「ルール」の正統性が試されているのであります。
ここで、戦後の正統性教育不在を象徴するのが、石原慎太郎を始めとした、なにをいまさら論。プロレスと同じだとは、笑止。
大相撲の先人達の精進の結晶を、なにゆえに貶めることができるとの驕りこそ、地獄に落ちるにふさわしい人格なのであります。
とは言え、力士たちも正統性の不在の被害者。
「プロジェクト」の正統性も、やはり同じ問題なんであります。正統性のある「プロジェクト」しか生き残ることはできない。つまりは、そう言うことなんであります。 KAI