寛平のアースマラソンとは、いったいなんだったのか。
4万キロを800日近くで走るためには、1日50キロを800日間毎日休まず走り続ける必要がある。もちろん海路はヨットだから自分の脚で走ってはいないけれど、冬の太平洋を小さなヨットで渡ることは陸路を走る以上に過酷なんであります。
こんな過酷な難行からすぐ連想されるのが、あの「千日回峰」であります。
荒行中の荒行、千日回峰で歩く距離が、なぜか地球一周に相当する4万キロ。(余談になりますが、この4万キロ、上記引用によって計算すると約4万5千キロですが、別の記述(千日回峰)には、「最初の3年間は、1年のうち100日だけ行が許され、1日30Kmを歩いて255ヶ所の霊場を巡拝ます。」とあるように、最初の5年間は40キロではなく30キロ。これで計算すると約3万8千キロ。誤差と言えば誤差ですが7千キロは気になる誤差ではありますが。)千日回峰行者は、未開の蓮の葉を象った桧笠をいただき、白装束に草鞋ばき、死出紐と宝剣を腰に、もし行半ばで挫折すれば自ら生命を絶つ掟のもとに、1年目から3年目は比叡山中255箇所を巡拝する行程約40キロを休まず各百日間、4年目と5年目はそれぞれ連続2百日、計7百日の回峰をする。
7百日終了の後9日間不眠・不臥・断食・断水で不動明王と一体になる「堂入り」の行を満じる。
6年目は京都市内赤山禅院往復が加わる一日約60キロの行程を百日、7年目は前半百日を僧坊を出て京都市内寺社を巡拝往復する一日84キロの「京都大廻り」、後半百日を山中約30キロを行歩する。
7年間で合計一千日を回峰し「満行」とする厳しい修行である。千日で歩く距離は約4万キロ、地球を一周するに等しい距離になる。
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今回のアースマラソンと千日回峰とは、実に不思議なことにこの4万キロで繋がっているのであります。
この4万キロを走り抜けると、いったいぜんたい何が起きるのか。それは、人間と言う身体が地球と「一体化」するのであります。
不動明王、すなわち、地球と言うわけであります。不動明王と一体になる「堂入り」
前回までの言葉で言えば、「自分自身」がすなわち「地球」となるのであります。これは絶対に頭では理解できない世界であります。車や飛行機、あるいは客船で世界一周しても決して到達することのできない世界。
それは、例えば実際に月旅行で月の上に立ったことがある人間と、それをカメラでしか見たことのない人間の違いを考えれば、簡単にわかることであります。
自分自身が地球と一体になると、なにか超能力のようなものを得ることができるのかと言えば、そんなことは微塵もないのであります。
ただあるのは、地球と一体化したと言う事実のみ。
しかし、これがあらゆる問題となる局面において効いてくる。
すでに何度も書いているように、人が当事者と言う自分自身の問題の中に身体を置くことができれば、その問題に対する答えを自ずから知っていると言う真実であります。
地球と一体化するとは、人類の依って立つ地球と言う存在そのものが持つ問題に対する答えを知っていると言うことであります。
とは言え、だからと言って、この無意識の世界を意識下に顕在化させることが簡単にできるかと言えば、そうではない。
これを引き出す方法は、一つしかない。
「忍耐であり、寛容であり、慈愛」であります。
いみじくも、アースマラソン完走直後、インタビュアのもう一度挑戦するかとの質問に、「地球に失礼」と答えた寛平。この「敬虔」こそ、4万キロを完走したことの確かなる証明なんであります。
それでは、私たち「普通」の人間にとってこれは別世界かと言えば、そうではないのであります。
KAIにとって温泉で座禅を組む、砧公園の古木の中を走る、毎早朝の散歩道、すべての「地」と一体化することで、地球レベルではないけれど、その問題の答えを知ることができるのであります。
あとは、ひたすら「忍耐であり、寛容であり、慈愛」の中に、意識の中にこれを顕在化することができる。
つまりは、そう言うことなんでありますの、週末テニス。
またテニスコートも、特別な「地」。この中でひたすら汗を流すこと自体に意味があるのであります。その結果に特別な意味があるわけではないけれど、土曜、6-1、1-6、5-7、0-1(5-7)、日曜、4-6、6-7(7-9)、3-4と、わずか1勝しかできなくても、それはそれで直面する問題の答えを自ずから知ることができる、幸せがあるのであります。 KAI