今回のテーマは、神。
この折口信夫が歌った原文は、こちら。あの戦争が終わった時、国文学者の折口信夫は「神、敗れたまいし」とうたった。この戦争の意味は、日本の神々が敗北したことだ、という。確かに神々は敗北したのである。ただしそれはアメリカの軍事力によって敗北したのではなく、日本人が日本の神々を見捨てたということだ。理由は簡単で、神風が吹かなかったからだというのである。神風などに期待するよりも、アメリカ流の合理主義、実用主義に頼った方が、もっと生活を豊かで快適にしてくれると考えたのであった。
神を見捨てた後にわれわれが神の座に祭りあげたのは、経済的利益であった。神が立ち去った後の正月を経済原則が支配している。(後略)
(【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 薄れゆく正月風情)
こちらを読めばわかるように、「日本人が日本の神々を見捨てた」のではなく、見捨てたのは神。日本人は神に見捨てられ、神を失ってしまったのであります。
佐伯を始めとした、いまの「新自由主義」レッテル貼り批判を繰り返す知識人は、この点において決定的に勘違いをなさっているのであります。
この違いは、実に大きい。神は、常に主体であって、合理主義、実用主義と置き換えられるような客体には決してなりえないのであります。神を客体化することこそ、自ら合理主義、実用主義のドグマに陥っていることを、ものの見事に露呈しているのであります。
神は遍在する。
これを身体で感じることができるのは、なにも日本人だけではないのであります。
神に見捨てられることのない人々の心の内に、常に神はあるのであります。元日や一系の天子不二の山
これは内藤鳴雪の句だが、日本に生を享(う)け八十の歳(とし)を迎える私の正月気分でもある。外国女性に向け、「これが日本人の神道的気分だ」と説明する。しかし、The First Day of the Year/One Line of Emperors/Mount Fujiと英語に直訳しても彼女には伝わらない。それで昨年、明治神宮の初詣に案内したら、参道に拝殿に向かう人々の熱気がこもる。冬の真夜中の雰囲気に彼女も感銘を受け「日本で宗教は生きている。日本人は自覚しないけれども神道的な気持ちを尊んでいる」といった。私も社前で手をあわせて、一家の無事や日本の自信回復を祈った。その姿を見て外国の友人は「ヒラカワはシントウイストです」といった。私は神道家ではない、といってもそういった。
(【正論】年頭にあたり 比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘)
これを理解できない者たちが、人を「経済的欲望」と自らの貶めた品性でもって見下すのは、滑稽としか言いようがないのであります。
さて、新年早々、初日の出を拝むことができたおかげか、一挙に運気の流れが良くなってきた。有限の時間の中であれこれ思考をめぐらせるうちにあっという間に2週間がたってしまった。まだまだこのテーマは続くけれど、とりあえずこの議論はここまで。
と言うことで、新年初打ちのテニスは1月3日。
3日から使えるのが、狛江にあるテニスコートだけ。少々遠いけれど、毎年ここでの初打ちが恒例に。結果は、6-4、0-6、6-2、4-2と、Y木夫妻ペアがなぜか好調で、第一セット、O谷、KAIペアから4ゲームゲットと健闘。
そして、いつもの週末テニス。土曜、6-4、1-6、6-3、2-1。日曜、6-3、7-5、1-6、2-2とすべて勝ち越し。こちらも運気の流れと同調しているのであります。 KAI