初日の出を拝み「共視論」を考える

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新年あけましておめでとうございます。

元旦早々の、朝の散歩が大正解。

この時期の日の出は、6時50分前後。6時30分過ぎに家を出ると、散歩コースの丁度中間地点あたりで、東向きに歩きながら昇ってくる太陽が目撃できるはず。

の予定が、ついベッドで横になって、気がついたら6時36分。急いで着替えて家を飛び出す。坂道を早足であがっていき、目的の場所まで来た。確かに東の空に太陽の明るさはあるものの、太陽が見える気配はまだない。思い出した。そうかこの道で見えるのは夏の太陽の日の出だったよ、ご来光は山手通りだったっけ。

間に合わないかもしれないと、これまた早足で山手通りまで戻る途中、近所の高層ビルに陽射しが当たり始めた。山手通りに出て、東の空を見る。微妙に太陽は見えない。反対の西を見ると陽射しの影が山手通りに架かる目黒線陸橋の柱を照らしている。とその時、東の空のビルとビルの隙間から光の帯が山手通りをサーチライトのように照らし始めた。ご来光であります。

横断歩道の信号は赤なのに、かまわず道路に身をのりだすように、太陽を拝んだ。信号が青になって、歩道の真ん中の安全地帯まで出て、再び手を合わせて拝む。何も考えない、至福の極みであります。

こいつぁ、春から縁起がいい。

と言うわけで、年末のテレビ東京の番組。北山修のドキュメンタリー。極めて刺激的内容で、ずっとこれを考え続けて、いまこれがやっと繋がった。

今回の番組のテーマの中心は、北山修の「共視論」。

「重なる視線が意味するもの」

 いきなり「共視論」などと言われても何のことか想像がつかない。まるで?一見さんお断り?みたいなタイトルである。しかし、このテーマ、かなりの注目株ではないかと筆者は思っている。その可能性と広がりはなかなかのものだ。この論集では執筆者の中心は精神医学や心理学の専門家だが、今後もっと広い領域に影響を及ぼしてもおかしくないと思う。

 そもそも「共視」とは何か。発達心理学にはjoint visual attention(直訳すると「共同注視」とか「共同注意」)という概念がある。ふたりがともにひとつの対象に目をやる行為のことである。このような行為をわざわざ概念化するのは、このジョイント・アテンションの発生が幼児の発達の中ではとても意義深いことと考えられているからである。誰かとともにひとつの対象をながめるようになることは、幼児の心において?画期?を成す。それは幼児が他者の意図や心的状態を読み取り始めた証拠だからである。

 この論集の編者・北山修は、このジョイント・アテンションという先行概念をもとに「共視」という語を造った。わざわざ新しい言葉をあてたのは、より広い文化学のコンテクストに打って出るためである。きっかけとなったのは浮世絵だった。北山は膨大な浮世絵のコレクションを調査してきたが、その中から母子像だけを取り出して分類すると、ある構図が繰り返し現れることに気づく。母と子がともにひとつの対象を眺めるという図が非常に多いのである。たとえば母とその胸に抱かれた幼児とが、かざした傘に向けて視線をやる歌麿の「風流七小町 雨乞」のように。そこで北山は考えた。こうして子供が母の視線を追いながら母と対象を共有し、その中から言語を習得したり、思考のパタンを学んだりする、そのプロセスが浮世絵には雄弁に表現されているのではないか、と。(第1章 北山修「共視母子像からの問いかけ」)

 しかし、このような着眼はきっかけにすぎない。「母子関係が媒介物を橋渡しにして開かれていく」という認識を出発点においてみると、「共に眺める」という行為が情緒的・身体的な交流でも非常に重要な意味を持っていることに考えが及ぶ。たとえば「面白い」という感覚。一説には、この語は火を囲みながらひとつの話題に引きこまれている人々の顔が、白く映えることに由来するのだという。interestingという感覚の基底には「共に眺める」という身振りがあるということである。(20)
『共視論 ― 母子像の心理学』北山修編(講談社)

「共視」とは、向き合って共に見詰め合うことではなく、みな同じ方向を向き、同じ対象物に視線を向けることを言うのでありますが、この意味するところが何であるか。北山は、これを「裏」の共有と表現するのであります。

「裏」とは「心」。この心も、「無意識」の世界の心を指しているのであり、「無意識」の世界の心の共有が、互いの信頼関係、「絆」なるものの本質であると喝破するのであります。

ここまで聞いて、はたと気づいた。例の「ペルソナ」問題。「ペルソナ」とは「顔」、すなわち「表」であります。この「表」に対する「裏」はどこにあるのか。

そこで大きな疑問が湧くのであります。これが単一の「ペルソナ」の「裏」なら、まだ理解できるけれど、複数の「ペルソナ」の「裏」とはいったいいかなるものと考えればいいのか。

更にであります。

人は、内なるものと外なるものとを常に区別しようとする生き物であると、筆者は考えています。

例えば男と女が出会い、つきあい始めて、やがて一緒になっていく。その過程でいつ、男あるいは女は、内なるものとして相手をみなし始めるのか、実に興味深いテーマです。またこのBlogで、フランスの暴動をもし取り上げて言及すれば、これは筆者がこの問題を筆者の“内なるもの”として認識しているとみなすわけです。そしてその言及の中身は、内なるものの歪みの解消に向けたものとなります。(この歪み解消のプロセスは、あの懐かしのフォーク・クルセダーズの北山修が医師として著した名著心の消化と排出(創元社、北山修、1988)に詳しく記述されています)
内なるものと外なるもの

これは、以前KAIが北山修の話を持ち出した時のエントリーですが、「ペルソナ」とは、この内なるものの外なるものへの「顔」と考えれば、「裏」を共有するものにとって「ペルソナ」はない。

浮世絵にある母子像の母子にとって互いの「顔」は見える必要がない。同じ方向の同じ対象物、すなわち外なる世界に共に向き合うことこそ、心の繋がりを保証しているのだと言うのであります。

話が、母子の絆からフェイスブック、ツィッターの「ペルソナ」問題まで拡がって、どう繋がるのか、これが問題であります。

とは言え、御屠蘇も入って、一挙に結論。

これは共有する「裏」自体の問題であり、母子のように思いっ切りプライベートのようで実は普遍的なもの、これこそ忍耐であり、寛容であり、慈愛と言う普遍性の共有以外には、プライベートもソーシャルな世界はなにもかも、なにひとつ成立しないのだと考えるわけであります。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。 KAI