KAIの車の駐車場は、山手通りのすぐ近くにある。その山手通りで2年ほど前から地下高速の五反田出入り口の工事が始まった。駐車場から山手通りに出たところにある交差点は、それまで右折左折自由にできていたものが、工事が始まった途端に右折禁止、左折しかできなくなってしまった。
この交差点で右折できないのは不便極まりないこと甚だしく、しばらくの間、交差点に出るたびに腹立たしい思いを重ねていたのであります。
ところが最近この腹立たしい思いがすっかり消えうせている自分に気がついて、思わず運転しながらニヤニヤしてしまった。
そうなんであります。不自由とは、自由であったものが不自由になって感じるものであって、そのまま不自由のままでいるといつのまにか不自由を感じなくなるんであります。
なんでこんな話をするかと言えば、アンジェロマスターから定期的に送られてくる、手書きのレターコラムにこんなことが書いてあったからであります。
なるほど、不幸せ、幸せも、KAIが感じた不自由、自由と同じ話なのかもしれない。つかんだ!!
幸せになるコツ?お前 そんなこと言い出してそろそろお迎えが近いんじゃないの?
確かにそれも言えなくもないと思いますが
去年読んだ本に ざっと要約すると
(現状に感謝すると幸せになれるよ)と受けとれる内容だったと思いますが、試しにやってみました。
貧乏なことに感謝→貧乏しているからこそこんなに働けるんだ
年をとってしまった → こんなに生きてこれたことに感謝
といった具合に考えて見ると 不思議なことに幸福感がムクムクとわいてきて一年程続いていますが、お目出たいやつだと思わないでね!!
ヒンズー教の教えで神々が相談して幸せを人の心の中にかくしたという神話があるそうです。
なにか実感が
(アンジェロワールド、秋山徹夫、2010/12)
すなわち、不幸せも不自由も、そのいまある状態を言う言葉ではなく単に「変化」を感じるだけの言葉に過ぎないのではないかと言うことであります。たとえ一時に不幸せや不自由を感じたとしても、過ぎてしまえばそれはそれで幸せであり自由なんだと言うことであります。
これは、KAIが3ヶ月前書いたエントリー、忍耐はあらゆることを成し遂げていく週末テニスの中の再引用ですが、マザー・テレサの「すべては過ぎ去っていきます」と言う言葉の意味があらためてよく理解できるのであります。心配、怖れ、不幸せは一時のもの。今あるものを受け入れ、神に感謝する。忍耐と寛容と慈愛。すべてがここに通じていると言うことであります。釈尊もキリストも、人間が生きるためには他の人のことをも思いなさいと教えられている。そこには忍耐と寛容そして慈愛が必要である。
(中略)
マザー・テレサの言葉がこの本にも述べられていた。「心配したり、怖がったりしてはいけません。すべては過ぎ去っていきます。神は変わりありません。忍耐はあらゆることを成し遂げていきます」。私たちは今日から昨日へと後ずさりはできない。明日に向かっておそれず前に進んでいかねばならない。でなければ何もできないし進歩もない。
(【一服どうぞ】裏千家前家元・千玄室 「家族」をつくる三杯の茶)
とは言え、若い人たちがこれを理解するのはなかなか難しい。
本来不幸とは、自分の中の時間軸上の差異に過ぎない。これを彼らが信じはじめた「格差社会論」が見事なまでに歪めてしまった。不幸を、格差と言う形で他人との差異に固定化してしまったのであります。格差社会論とは、若者達に永遠に不幸を感じ続けることをプリミティブに要求しているのであります。
もちろんこの方が政権奪取には都合が良かった。
ところがそうは問屋が卸さない。
政権をとって彼らがやっていることは、ますますの利権誘導と言う格差拡大。
ほんと、クーデターでも起きて不思議がないんであります。 KAI