ノーベル賞が生み出す不思議な力と言葉

  • 投稿日:
  • by

あのノーベル賞ラッシュから2年、また嬉しい知らせがやってきた。

この湯川から始まる分かれた二つの系譜が、南部の発見を小林・益川が理論的にその根拠付けして、また先で繋がる。時間を越えたシンクロニシティ、意味ある偶然としかいいようがありません。

ここで重要なのは、こうした繋がりが、ただ単なる互いの出会い以上の、もっとより具体的なところに、その根源的な理由があると言うことです。それは、湯川を源流とする、数式と言う道具を使って生きた気の流れを操る方法を伝授された人々の系譜です。

数式と言う道具を使って計算できることは、単に数式を操れるだけのことです。世の中の学者といわれる人々の大半がそのレベルにとどまっている。対して、この系譜の人々は、数式を使うことでその数式の中に流れる気を自在に操る方法を習得し、最後真理の扉を開くことができる。
ノーベル賞ラッシュはこれもまたシンクロニシティ

この系譜と言うシンクロニシティが、またここでも再現されていたのであります。

前回の湯川と言う源流にかわるのが、イギリス生まれの化学者ハーバート・ブラウン。湯川と同じように、ノーベル賞を受賞し、すでに鬼籍の人なのであります。

まず、ブラウンと鈴木章との関係。

北海道大学での勤務は、理学部で2年半、工学部で32年半におよんだ。途中、1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)までの3年間(実質的には2年弱)、アメリカ合衆国インディアナ州のパデュー大学のハーバート・ブラウンのもとで有機ホウ素化合物の研究を行う。このときの経験が、当時助手だった宮浦憲夫(現在、北海道大学特任教授)とのカップリング反応の研究に活かされ、1979年(昭和54年)発表の鈴木・宮浦カップリングの発見につながった。
鈴木 章、Wikipedia

1963年から1965年、二人は師弟の関係であったのであります。ブラウン51歳、鈴木33歳。

そして、根岸英一。

同大卒業後、帝人へ入社[1]。その後、帝人を休職してフルブライト奨学生としてペンシルベニア大学へ留学し同大学院博士課程修了。1963年にPh.D.(理学博士)を取得。博士課程での指導教授はアラン・R・デイ。
Ph.D.取得後は日本の大学での勤務を希望していたが職場が見つからず[5]、1966年に帝人を退職してパデュー大学博士研究員となる。このときの指導教授はハーバート・C・ブラウン博士(1979年ノーベル化学賞受賞)であった。1968年にパデュー大学助手、1972年にシラキュース大学助手、1976年に同大学准教授を経て、1979年にブラウン教授の招きでパデュー大学へ移籍し教授に就任。1999年からパデュー大学ハーバート・C・ブラウン化学研究室特別教授の職位にある。
根岸英一、Wikipedia

こちらは鈴木の後すぐの、1966年から68年まで、ブラウン教授のもとでの博士研究員。

鈴木、根岸、どちらもブラウンと直接関係していたのは2、3年と短い。しかし期間は関係ないのであります。このわずかな間に、二人はブラウンからしっかりと、「数式の中に流れる気を自在に操る方法」を習得していたのであります。

こういった人々にことごとく共通するのが、「夢」。

「基本的な能力があれば、正しく夢をもっていけば50年も追えば、わたしも50年夢を追っているわけですが、その夢が実現する可能性というのは、かなり高いと思います。みなさんもぜひ、その線で頑張っていただきたいと思います」

これは根岸の受賞直後の授業のときに若い後輩に向けて語った言葉であります。

夢が、ノーベル賞を生み、ノーベル賞が、夢を生む。ノーベル賞とは、「夢の力」なのであります。

そして、根岸の言葉には、もう一つ重要な言葉があるのであります。

それが、「基本的な能力」。一見、学力のことかと思いがちですが、そうではない。それは「知らないことを知る」そう言う能力を指して言っているのであります。何がわからないのかが分かる。それが「正しく夢をもっていく」の正しさに繋がっていくのであります。

また、元気が出てきた。ありがたきことかな。 KAI