時間の証人と週末テニス

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人の行為や言葉なんてもんは、それをどんな言葉で着飾ろうと、時間と言う証人の前では答えは一つしかない。それは、ウソであったか、ホントであったかと言うこと。

例えば、村木裁判における元係長。

この元係長が、いまから5年後、いかなる組織でいかなる地位にあるか。これを見るだけで、この裁判における証言が、ウソかホントか、一目瞭然となるのであります。

これは、民主党のマニフェストも同じこと。にもかかわらず、1年と言う時間がたって結果が出た今になってもなおウソを通そうとするのは、よほど国民はバカ、つまり、どうせ覚えてなんかいないと、考えているに違いないのであります。

ま、これは受けた恩を平気で忘れる(世間はなぜデフレの恐怖が理解できないのか(2))国民だから、半分以上は当たっているわけではありますけれど。

中国もまた、これにはまことにもって強かなんであります。

日本の大使を休日の深夜零時に呼びつける目的は、尖閣諸島の領土略奪。

いわゆる、難癖。ついこれまではこれが武力で行われていたけれど、さすがにいまはできない。替わりにありとあらゆる機会を利用して、仕掛けてくるのであります。もちろんこれも、20年後、国連の見事中国領土とのお墨付きを得て、メディアも国民もなんでだろうと憤慨することだけは忘れないのであります。

と言うのはちょっとオーバーですが、かようにメディアも国民も、そろいもそろって時間軸上でものごとを考えると言うことができないと言うか、大の苦手なのであります。

これがなぜかと言うと、日本語独特の叙述的思考方法にあると、KAIは考えています。

語順の制約を受けない日本語には、過去も未来もその区別はありません。すべては絵巻物の世界として、今の中に空間的に配置されます。この意味では確かに日本人は「水平的」です。対する漢文や英文の世界では、語順と言う時間的配置こそ、その意味の根幹を成す。まさに思考のレトリックとしての、言語のその特性があるのです。
レトリックとしての自虐と悲観

これが日本人の特性なら、いたしかたないけれど、これを悪用して私欲を肥やす「悪人」どもを懲らしめる武器となるのが「時間の証人」。「善人」たるもの、これは決して忘れてはいけないのであります。

そして、「悪人」を懲らしめるために厄払いの週末テニス。

台風のおかげで朝方はずいぶん涼しくなったと思いきや、日中はまだまだ厳しい。土曜、6-4、2-6、2-1。日曜、6-0、4-6、0-6、4-2。ゲームの結果も、ねんざした親指とともに、すこしずつ回復の兆しが見えてきた。あともう少し。 KAI