ものごとの大きな流れと言うものは、結局のところすべて一つに繋がっている。
いまなぜこんな時代に、こんなアホーな人間達が跋扈して世の中をめちゃくちゃにされなければいけないのか。四則計算、いや足し算引き算さえまともにできない人間に経済のかじ取りをやらせるようなデタラメに、いったいぜんたいなぜなってしまったのか。この意味をKAIは、ひとしきり考え続けていたのであります。
そんなとき、この文章に出会って、これがなぜか脳裏にひっかかって、しかし、それがなんであるかわからなかった。
最初この文章を読んで、「辛抱」のことかと思ったわけであります。「辛抱とは心棒」、毎朝の散歩道にあるお寺に掲げられている標語です。今の時代を生き抜くだけの強い心の棒を鍛えるための神様の思し召しに違いないと、思ったのであります。釈尊もキリストも、人間が生きるためには他の人のことをも思いなさいと教えられている。そこには忍耐と寛容そして慈愛が必要である。
最近、私はアメリカでベストセラーとなったグレッグ・モーテンソンとディヴィッド・オリバー・レーリンの著「スリー・カップス・オブ・ティー」を読んだ。実はこのティーは大切な人間関係を教えたものであった。タイトルに「一杯目はよそ者、二杯目はお客、三杯目は家族」とあり、最初は「はてな?」と思った。舞台はパキスタンのカラコルム山脈から始まる。ペルシャには「暗いときには星が見える」という諺(ことわざ)がある。作者は山で遭難し、地元の小さな村のシェルパとポーターに助けられたことから、この貧しい村に学校を建てて、小さくても未来への星をたくさん育てようと奔走するのである。しかし、よそ者が村に学校を建てたいという夢を持っていても、その村の部族の人々に話を聞いてもらい、信頼され、迎え入れられることは大変厳しい。
だけど作者は忍耐と寛容の中で一杯目のティーをいただくことになる。そして、打ち解け合い、必要な人と認められたときにはじめて賓(ひん)、すなわち客として二杯目の茶をいただく。茶道の教え、賓主互換である。最初の茶は探り合い、価値観を共有できるかという試しの茶であった。そして、時を経て三杯目を振舞われるが、家族と同様にすべてを許容されたという実証の茶であった。たった三杯のティーで人間関係の絆(きずな)をつくるという、この地域の茶の意義の深さを知った。このことにより、国柄や生活習慣は変わっても、一杯すなわち一●(いちわん)のお茶の功徳は共通しており、そこに生まれる心の交流の大切さをしみじみと感じた。
マザー・テレサの言葉がこの本にも述べられていた。「心配したり、怖がったりしてはいけません。すべては過ぎ去っていきます。神は変わりありません。忍耐はあらゆることを成し遂げていきます」。私たちは今日から昨日へと後ずさりはできない。明日に向かっておそれず前に進んでいかねばならない。でなければ何もできないし進歩もない。
そして何事にも辛抱が必要である。また単なる自己の欲望にのみとらわれていては人生の意義を見失ってしまうことになる。人間は共に苦労し、協力し合ってこそ良き芽が育つのである。(せん げんしつ)
●=怨の心を皿に
(【一服どうぞ】裏千家前家元・千玄室 「家族」をつくる三杯の茶)
しかし、どうやらそうではなかった。
そうではなく、答えはこの文章の引用冒頭の「寛容」であり「慈愛」の方にあったのであります。ただ耐える意味での「忍耐」ではないと言うことであります。
そしてであります。この文章の中でもっとも重要な部分が、これ。
大半のこの日本と言う国柄を理解しない「よそ者」。その中でこれに気付いて二杯目を振舞われる「お客」。ともに「寛容」と「慈愛」の中にある「家族」。「一杯目はよそ者、二杯目はお客、三杯目は家族」
みそくそ一緒にしてはいけないのであります。
まさに小倉昌男の「お客様」とは、二杯目のお客。「よそ者」ではないのであります。大変だよね。
でもやりがいがあるよ。
とても大切な仕事だよ。
がんばっておやんなさい。
お客様に喜んでいただくこと。
それが一番大切なんだよ。基本は自分がしてもらいたいことを相手にもしてあげることなんだよ。
相手の立場になって考えるんだよ。
経営でも人生でも同じなんだよ。
([書評]小倉昌男 経営学(小倉昌男)、経由、経営者は何によって記憶されるか――追悼・小倉昌男)(小倉昌男の言葉)
そうです、いまなにをやらなければならないのか、これで明確に見えてくるのであります。すなわち、「よそ者」には一杯目のお茶を振舞い、「お客」に二杯目のお茶と、段階をふんで「人を幸せにする」ことなんであります。
そして相手は一人二人ではない、社会そのもの。社会の中の一人一人とかかわり「峻別」していく「忍耐」。これが、マザーテレサの、この言葉の意味なのであります。
こう考えたとき、昨日までの万策尽きたかの思いが吹っ切れた。やるべきことは、まだまだある。あきらめるのは早すぎる。ふっと、相手の一人一人の顔がクリアに浮かんでくるのであります。「心配したり、怖がったりしてはいけません。すべては過ぎ去っていきます。神は変わりありません。忍耐はあらゆることを成し遂げていきます」
と言うことで、今週もまた週末テニス。
なるほど考えてみれば、こちらも何十年もよく続いたもんだと思う。「家族」や、たまに「お客」も入って続けることができたのは、「慈愛」の賜物。
9月に入ったとは言え、炎熱に衰えはない。土曜、超のつくスローペースで、3-6、5-7の2セットでお仕舞い。
日曜、同じく6-1、2-6、3-3と第3セットの途中で時間切れ。
あとはアンジェロの生ビール。ですが、本日は夜娘が手作りの料理をご馳走してくれるので、お昼はひかえめにであります。
そして帰宅後、誕生日のプレゼントだと言って娘にもらった焼酎のぐい呑みで二人で乾杯。これがまた美味い。出てくる料理もこれまた美味いから、ぐいぐい飲んでけっこうよっぱらったけれど、たまにはこれもいいのであります。
いつのまにか、ざぶとん枕にうたたね。いまやむなく離れ離れに住んでいる家族だけれど、心は一つだと、夢の中で思ったかは定かではありませんが、これもまた「幸せのかたち」なのであります。 KAI