テレビとは「意識の中の街の風景」

  • 投稿日:
  • by

出たいと言っても出してくれるわけではないんですけど、テレビに出ない効用は、こんなところにあるんであります。

それにしても高橋源一郎の政治感覚は鋭いなあ・・・と横で話を聞きながら感心。
1時間ほどお話したあとに赤坂中華料理屋へ。
こんどは鳩山由紀夫総理を囲んで、秘書官も加えた6人でお昼ごはんをいただきながらおしゃべり。
総理は全身から「いいところのおぼっちゃん」オーラをばりばり発信していた。
自分から「オレがオレが」と自己主張しなくてもよい環境で育ってきた人に特有の余裕がある(私や源ちゃんにはそれがない)。
(中略)
たいへん健全な見解だと私は思ったが、むろん詳細についてはこんなところで申し上げるわけにはゆかない。
たちまち二時間が経つ。
話が佳境に入ったところだったので、「この続きは『Sight』でやりましょう」ということになる(勝手に決めてごめんね、渋谷くん)。
次回のセッションにゲストで総理においでいただきましょうということで話がまとまる。
大学生を聴衆にしてゼミ形式でやるのはどうかという案も出て、高橋さんのお勤めの明治学院大学で一度やってみましょうという話になる。
だったら、神戸女学院大学でもやりましょうよと申し上げるが、「神戸はちょっと遠いので・・・」という懸念が事務方から表明されて却下。
そういえば、総理の移動は護衛といっしょの大編成の車列を組んでなされるのであった。
総理を送り出したあとレストランを出ると、総理番の番記者たちが10人ほど待ち構えている。
「副長官、今日は何のお話だったんですか?」と松井さんが訊かれている。
同行の高橋さんには気付いた記者もいたが、私には誰も気づかなかった。
黒いジャケットを着た背の高い、ごつい男が政治家ふたりとゲストの作家の横に立っているのだから、きっと護衛官だと思ったのであろう。
テレビに出ていないとこういうときに便利である。
政治と経済と武道について語る週末

このなにげないお話には、きわめて重要なメッセージが隠されているのであります。すなわち、テレビと言う視覚空間の本質が、実はここにあると言う事実であります。

この一般人としての記者に限らず、テレビを見る習慣を持つすべての人々は、知らず知らずのうちにテレビと言う空間を、意識の中でなお無意識に共有している。

これに、アメリカ大統領でさえ逆らうことができない。

 米国の大統領は絶大な権限を持ち、オバマがその気になれば米国のアフガン戦略などすぐ転換できると、多くの人が思っているだろう。しかし現実は全く逆である。オバマが電撃的にカブールを訪問した直後から、米国のマスコミでは「カルザイは信用できない」「カルザイは反米に転じた」といった報道が大量に流され、カルザイがいかに反米か、米政府がいかにカルザイに不信感を持っているかという話を、やたらに強調する記事があふれた。

 911以来、米国では(日本と同様)マスコミ報道が一定方向に偏重するプロパガンダ機関と化しているが、偏重の方向性はオバマの戦略を流失させるものになっている。この事態の前に、オバマはむしろ無力である。

 そもそも実は、最もこの情報の偏向にまとわりつかれているのは、米国の一般国民ではなく、歴代の米大統領である。諜報機関や顧問らが毎日、米大統領に政策決定の材料となる情勢分析の報告を上げてきたが、その中には間違った判断を誘発する歪曲情報が混じっていたはずだ。間抜けな前任者はころりと騙され、イラクとアフガンに侵攻した。

 オバマはブッシュより聡明らしいので、自分のところに上がってくる情報が歪曲されていると勘づいているだろう。だからこそ「カブールなんか行く必要はありません。ホルブルックに任せておけば良いんです」という側近の提案を無視し、超多忙な日程の合間をぬって無理矢理カブールまで行ってカルザイと会い、アフガン戦略を立て直そうとした。

 しかし、オバマのカブール訪問自体がプロパガンダ機関に都合が悪いらしく、ほとんど報じられず、訪問直後から米マスコミはカルザイと米国の関係を悪化させる報道をあふれさせ、オバマのアフガン戦略を失敗の方に押しやっている。
カルザイとオバマ

このオバマを悩ます偏向報道もまた、形を変えたテレビと言う視覚空間の本質を意味しているのであります。

日本の歴代首相が、なぜか軌を一にするかのように、 支持率低下とともにテレビと言うメディアと対峙し始めるのも、これまたまったく同じお話。

小沢問題で、メディア批判を繰り返し小沢を擁護し続ける人々や、普天間問題で自滅する鳩山を、メディアが過剰報道でつぶしにかかると批判するエセジャーナリストもまた、まったくもってこれが理解できていないのであります。

KAIはいったい何を言わんとしているのか。訝しく思われる方々もおいででありましょうが、ここはひとつひとつご説明します。

そもそも私たちの「意識」とは、一体なんであるのか。一見、私たちには「意識」の一部を互いに「共有」しているかのような「何か」があることを前提に、あらゆるコミュニケーションが行われているのでありますが、「意識」の主体はあくまで一人一人の「脳内」にあるのであって、物理的にはまったく切り離された世界で展開されていることに、まず一番に気づく必要があるのであります。

簡単に言ってしまえば、一人一人の「意識」の世界は、まったくそれぞれ別個の存在であり、互いのそれがいかなるものであるか、今の私たちにはそれは不可知としか言いようのないものなのであります。

にもかかわらず、互いがなぜコミュニケーションできるかと言えば、「意識」の「共有」ではなく、「共通」する「意識」によってそれを可能にしているのであります。さらには、この「共通」する「意識」とは、すなわち、社会生活や教育といった時間的経験であり、また、天気を含めた地理的、物理的な、空間的経験に他ならないのであります。

そして、もう一つの、「共通」する「意識」の存在。話が長くなりましたが、実は、テレビと言う視覚空間こそ、このもう一つの「共通」する「意識」であり、意識の中における地理的、物理的な、空間的経験と同値なるものなのであります。

KAIはこれをいままで「意識の中の街の風景」と呼んできたのですが、リアルな街の風景と同じように、誰かがこれを恣意的に操作できるものではなく、すべては刻一刻と変化を遂げていった結果に過ぎないのであります。

この視点に立てば、テレビと対峙する、時の総理も、偏向報道とメディア批判を繰り返す与党支持者も、風車に突進するドン・キホーテと、寸分たがわず同じであることが、きわめてクリアにご理解、ご納得いただけるのであります。

しかして、上に引用したオバマの戦略。すこぶる賢明と言うことであります。

もちろん庶民にあっては、ウチダ先生のように、絶対にテレビに出てはいけないのであります。多くの署名人がテレビに登場し、潰されていく。別に誰が悪いのでも、なんでもない。テレビとは、ただ単に、そう言うものであると言うしかない。

一つこの話に付け加えるとするならば、「意識」の「共有」がないわけではない。KAIが言う「大気」がそれで、しかし、これはあくまで「意識」そのものが一つの「大気」の中にあると言うことで、今回とは別次元のお話。と言うことでこのお話は、次回。 KAI