石原慎太郎が、二十四節気に異議を唱えている。
以前から気になっていたことだが、テレビなどでの気象予報の折に聞かされる大寒とか、立春、啓蟄(けいちつ)といったいわゆる二十四節気とその折々に我々が生活の中で感じる季節感に誤差といおうか、実際の季節感と節気の呼称の間にギャップがありすぎる。
例えば今年の小寒や大寒は一向に寒くはなく、逆に立春にいたって今年の冬一番の寒さに悩まされた。これらの節句は、太陽の動きを元にして地球と太陽の位置関係を二十四等分してもうけられているが、これが積雪の多い雪国などではまた一層違って、我々が太平洋側の都会で味合う実感とははるかに隔たりがあるに違いない。
いずれにせよこれら二十四節気は、一部をのぞいてどうもその呼称と季節感にへだたりがありすぎるような気がしてならない。
(【日本よ】石原慎太郎「正確な二十四節気を」)
確かに今年の大寒と立春は、おかしかった。しかしこれはKAI的には、「カオス」の典型的な現象であって、おかしくもなんともないのであります。
大寒の日と、立春の日が逆転してしまった。大寒に記録的暖気、立春にこれまた記録的寒波。
このフェーズが逆転する現象をして、これを「カオス」と呼ぶのであります。
もとより、気候変動なるものは、複雑系そのものであります。これはしかし、複雑系ではあるものの、大局的にはけっこう安定しているもの。これが「カオス」的徴候を示すのには、なんらかのわけがあるわけです。
それは、「新しい秩序の誕生」です。
(新しい秩序誕生の予感)
これに対して、石原は、こう主張する。
いずれにせよ現行の節気や節句と現実の季節の味わいとの間に誤差が感じられるのは、一つははるか離れた中国の季節に関する言い伝えを鵜呑みにしてしまったのと、旧暦を新暦に変えたことに所以(ゆえん)してる。
ということで、太陽の動きを十五度ごとに区切ってものされたという二十四節気を、気象観測の技術が進み気象のデータが豊富に取り揃えられたこの現代で、その呼称なり節気の設定の月日なりを修正したらどうだろうか。そうすることで我々は、この変化に富んだ日本の風土を覆う季節をより深く親身なものとして味わうことが出来るに違いない。それは民族の情操を強く育むためにも必要なことではなかろうか。
(【日本よ】石原慎太郎「正確な二十四節気を」)
要するに、今の二十四節気が、現実の「石原慎太郎」個人の感性と誤差があるから、改善すべしとな。なんとまあ、放漫な主張だこと。
知事には、ぜひ、毎朝の散歩をお勧めしたい。
このKAIのブログにも、二十四節気はたびたび登場するけれど、早朝の空気の中で感じる二十四節気は、まったくもって、いまだ何ら変わらないそのままの二十四節気であるのであります。
石原にとって不幸は、この五臓六腑の五感ではなく、ただ「脳」の中の知識だけで、ものごとの理路が決まるとする、おおいなる勘違いです。
すなわちこれは、二十四節気そのものが季節感を喪失しているのではなく、石原慎太郎と言う個人の「季節感の喪失問題」そのものであるのであります。
なぜそんなことを断定的にいえるのか、訝しがられる方も当然のようにおられるでありましょうが、話は簡単です。
大寒の日と、立春の日が逆転してしまった。大寒に記録的暖気、立春にこれまた記録的寒波。
確かに、KAIは、こう書いている。
しかし、季節が「逆転」することと、季節感が「ずれる」こととは、本質的な意味が違う。にもかかわらず、これを、節気の呼称や月日が「ずれる」ことと混同し、おまけにその「ずれ」解消を訴える主張の根拠とまでする。
これが、石原慎太郎の「前頭葉」の仕業であることは、まず間違いありません。
かようにこれは、現代に生きる知識人の、病理と言うものなのであります。
突然ここで、ウチダ先生について言及するわけでありますが、KAIがなぜ、常日頃ウチダ先生の論に着目しているかと言えば、唯一彼こそが、この「知識人の病理」を克服した言論活動を実践しているからであります。
もちろん光明なる読者の方々にとって先刻ご承知とはいえ、この根拠が、ウチダ先生の実践する、合気道と言う武道にあるのであります。
KAIにとって、週末テニスがそうであるように、前頭葉ではない、そのフィジカルな体験こそが、すべての論の根拠となるのであります。
そうではなく、ただ前頭葉だけに支配された世界が、いかに脆いか、ぜひとも慎太郎は、この原点回帰が必要なのであります。 KAI
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