「昭和天皇の祟り」と言う小沢問題

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はたと気づいた。

このところの週末テニスの不調は、リキの祟りだった。

なにをいまさら「祟り」なんて大仰、おどろおどろしいと言うなかれ。

日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表わす「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある。
現在では一般的に、人間が神の意に反したとき、罪を犯したとき、祭祀を怠ったときなどに神の力が人に及ぶと考えられている。
祟り、Wikipedia

そうなんです。毎朝の散歩は、KAIにとって「祭祀」だった。これを怠れば祟りがあるのは、当然なんです。リキは生きている間、一生懸命これをKAIに教えてくれていた、KAIの守り神だったんです。

にもかかわらず、追い込みを言い訳にして、怠った。祟りがあって、当たり前。

これを病気ではなく、テニスの不調で教えてくれた。なんとも有難いことであります。

おかげで今週は欠かすこともなく、久しぶりに朝の散歩がなんだか清々しいのも、気のせいか。

そして、思った。小沢問題は、間違いなく「昭和天皇の祟り」なんだと。

もちろんきっかけは、みなさんご存知の通りの、小沢の天皇の一公務員扱いにある。さすがにKAIも含めて、人々の怒りのマグマが黙っていなかったってことです。

さらにさらに、みなさん、祟りをばかにするもんじゃありません。

当時小沢発言を擁護した方々についても等しく、この祟りに見舞われるのであります。ですからこの意味を理解していた共産党は、天皇制は認めてはいないにもかかわらず、小沢を非難する側に廻ったわけです。

こうしたことを考えると、祟りとは、人の精神社会の自然治癒力ではないかと思えてくる。祟りを侮ることなかれ。今週のKAIの教訓であります。 KAI