これはもうシンクロニシティの力としか言いようがない。
このウチダ先生の文章を読んで、わかった。いまインターネット上で動作するすべてのアプリケーションをプログラミングすることの意味と、その価値とは何であるかが。商業というのは本質的に等価交換であり、そこからは何も富は生み出されない。重農主義者たちはそう考えた。
「『純粋の商業は・・・等しい価値と価値との交換にすぎず、これらの価値にかんしては、契約者どうしの間には、損失も儲けもない。』なぜなら、『交換は何ものをも生産せず、つねにひとつの価値と等しい価値の富との交換があるだけで、その結果真の富の増加はありえない』(ケネー)からである」(中沢新一、『純粋な自然の贈与』、講談社学術文庫、2009年、100頁)
ところが農業生産だけは富をつくりだす。
「農業では地球が創造をおこなからだ。大地に春撒いた百粒の小麦種は、秋にはその千倍の小麦種に増殖をおこなう。この増殖分から、労働に必要だったさまざまな経費や賃金をさっぴいても残るものがある。ケネーが『純生産物』と呼んだ、この増殖分こそが、農業における剰余価値の生産をしめしている。」(Ibid.)
マルクスも、富の増殖については、流通過程以外のどこかで剰余価値が創造されていることについてはケネーと同意見だった。
だが、重農主義者とは違い、マルクスは「自然の贈与」ではなく、「労働力」が富の源泉だと考えた。
労働力は「ピュシス」の力である。
外部の自然は、労働者の身体を通して、贈与を行う。
「労働者は、商品という形に物質化された労働を、資本家に売っているわけではなく、この抽象的なピュシスの力である労働力を売っている。ここに資本主義世界における、剰余価値発生の秘密が隠されている。」(106頁)
(ピュシスの贈り物)
これは、人類が生み出した、まったく新しい第二の「アグリカルチャー」だったのです。
自然が与えた「ソフトウェア」と言う生命を、「アプリケーション」として育てること。これこそがプログラミングの意味だった。
もちろん、プログラミングと言っても、オフラインのアプリケーションではない、インターネット上の成長するソフトウェアとしての自己組織化アプリケーションのプログラミングのこと。
そして、このアプリケーションのネットワークに参画する人たちが、「人間的成長」と言うこの自然の贈与を享受できる。
つまり、クラ交換という何の富も生み出さない無限交換のプロセスにおいて、「外部の富」は、共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟というかたちで世界に滲出しているのである。
ビジネスの場でゆきかっている商品やサービスや情報そのものは富を生み出すわけではない。
そのようなビジネスを行う相手を安定的に確保するためには、そこに「共生」の関係がうちたてられなければならないということと、ビジネスを円滑にすすめるためには当事者に人間的成熟が必須であるということが、ビジネスのもたらす「外部の富」なのである。
(ピュシスの贈り物)
もうこれは、20周年記念的お話そのものではありませんか。
ここでウチダ先生が書く「人間的成熟」こそ、KAIの言う「人間的成長」です。すべてはここに帰すると言うこと。
なるほど、ビジネスをこの次元にまで高めることと、ビジネスにおける成功とは、まったく同義のことであったのであります。 KAI
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