日本語をリストラするとか、構造改革をストップするのが保守だとか、なかなかほほえましい言説にあふれる世界は、まことに楽しい。
そこでつらつら考えるに、ニッポンの「国語なんたら審議会」には刺客を送り込まれ、全国の国語の先生たちからはカミソリを送られてきそうなことなのだが、「国家百年の計」を考えると、ここでおもいっきり、日本語の言語体系を大幅リストラして簡素化することが、国家戦略として正しいんじゃないかと思えてきた。
こうした状況のなかで、自民党内に、構造改革路線への回帰が党復活の道だと主張する政治家が多くなっているのは、実に驚くべきことだ。しかも、それが保守の再生と呼ばれていることにも呆(あき)れざるをえない。保守思想は改革のための改革を批判し、構造を攻撃の対象にすることを最も忌避してきた。ましてや、自民党を崩壊に押しやった小泉型の「改革政治」を追求することなど、保守思想からはもっとも遠いところにある。
(国家生き残り戦略としての日本語リストラ)
(【今日の突破口】ジャーナリスト・東谷暁 「改革政治」阻止が使命)
確かに、まことに楽しいのだけれど、このお二方には決定的に欠けていることがあります。それは、「保守」とはなんであるかの理解であります。
これを理解しないかぎり、「国家百年の計」などと言う言葉は、口が裂けても言えません。
この保守とは何かを考えるヒントになるのが、アメリカの共和党と民主党の関係です。共和党が保守政党で、民主党がリベラル(自由主義)政党であると言う2項対立は「常識」としてみなさん、受け入れていますが、この意味、この二つの政党の本質を、本当によく理解したうえでこれを考えたことのある日本人はいないのではないかと、KAIは思っています。
すなわち、共和党と民主党の関係とは、決して対立構造ではないと言うことであります。もちろん、具体的な「市場主義」とか「自由主義」とか、表面上のこれらの言葉から導かれるレトリックとしての政策には、確かに異なるものがみえるかもしれないけれど、両党がともによってたつ「保守」思想には寸分の狂いも、ありません。
そうです、米国の共和党だけではなく、民主党も、そのものずばり、保守政党なのです。米国市民は、保守政党そのものは、すでにとっくの昔からの前提条件であります。どちらの政党を選んでも、「保守」に変更はないと言う、安心感。この安心感こそ、「保守」政党の本質であります。
そしてこれもシンクロニシティ。「保守」とは何か。これを明確に説明する文章に出会うのです。
わずか500メートル上がれば菜の花が咲く春先となり、山を下ればバナナもブーゲンビリアも咲き誇る盛夏、熱帯となる。病原菌を仲介するハエやゴキブリ、ノミたちは、気圧か乾燥した空気か温度のせいで住みにくく、しかも美しい山の水が手近にある所だった。チリやメキシコシティーが、なぜかくも天空に近い地にその文化が栄えたのか。医療の行き渡らない時代のリスクマネジメントとして、先人はこのことを知り尽くしていたのだろう。旅はしてみるもの。本に書かれていない疑問が解ける。
わが国の飛鳥、藤原、奈良、京都と移り変わる遷都も、実は人口増加に伴う糞尿(ふんにょう)の処理と疫病の関係に由来するところが大きかった、と思う。藤原京が、なぜかくも短命な都だったかは、その地が平坦(へいたん)に過ぎたのではないかとも思える。排水が思うに任せず、糞尿処理ができなかったのではないだろうか。平城の内裏から南大門にかけても、わずかに斜面が南に駆け下り、平安京でも洛北から南に向かって傾斜があり、十分な水とそれを流す下り坂が鎮座する。このことが都を1000年続けさせたのではないだろうか。
(【アートな匙加減】画家(日本芸術院会員)絹谷幸二 「地」のリスクマネジメント)
保守とは、「地の利」を守ること以外にはありません。「地」には「利」もあれば「不利」もある。この「不利」とはならない、「地の利」に適う社会を保っていくことこそ、「保守」の本質であります。
アメリカには、民主党も共和党もよってたつ普遍のアメリカの「地の利」があり、日本には日本の「地の利」がある。
そしてこのそれぞれの「地の利」に適う言葉があると言うこと。私たちの祖先はこの言葉を「地の利」に適うように永い永い年月をかけて変化させてきた。この言葉を、他の「地」に適うように強制的に変えようとすることは、そのまま「言葉の死」を意味することは、もうこれ以上説明するまでもないでしょう。
構造改革も同じこと。日本と言う国の「地の利」に適うように絶えず社会制度を変化させてきたのが、構造改革。いまに始まったことでもなんでもない。当然のことながら、他の国の「地の利」を前提にした構造改革は「社会の死」につながる暴挙であり、到底許されるものではありません。
しかし、この他の国の「地の利」を前提にした構造改革とは、小泉構造改革のことでもなんでもない。このとんでもない構造改革とは、戦後の連合国占領軍(GHQ)による日本の国力の解体を目的とした占領政策と言う「改革」のことであって、これと小泉構造改革を較べれば、「地の利」の意味するところは自ずと理解できるはずです。
ですから、自民党の崩壊は、小泉構造改革の否定それ自体が日本の「地の利」を守ると言う「保守」の精神の喪失に繋がることを理解できなかった一連の指導者たちの蒙昧にこそ、そのすべての責があるのです。
それにしても、この蒙昧。いつまで続く? KAI
コメント