逆進する技術、逆行する身体

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Twitterについて、いままでここで一度もコメントしなかったのには、訳があります。それはKAIがTwitter自体にまったく興味が湧かなかったこともありますが、いま一つTwitterと言う機能の歴史的意味合いがつかめなかったからです。

しかしここにきて、Twitterとは一体なんなのか、やっとわかりました。

この閃きの切っ掛けになった記事がこれです。

 欧州を起源とする近代技術は、道具→機械→システムという流れで発展してきたが、日本はその都度、機械→道具、システム→機械という逆の流れを作り出して近代技術にうまくキャッチアップした---。『ものつくり敗戦』でこんな「歴史観」が披露されている。
「逆進」する日本

ここで言う「逆進」、逆の流れとは何を意味しているか、技術と言うものが常に身体性を帯びていることを前提に考えれば、これは簡単に理解できることです。

技術の身体性とは、例えば飛行機に対する鳥、自動車に対する馬車、電話に対する糸電話、電子メールに対する手紙のように、目の前に出現した新しい技術に対して私たちは、自分の身近にあるモノを通して理解し、その技術を自分の身体の中に受け入れ、取り込むことができる、このことを技術の身体性と言います。

随分昔の話になりますが、近々出る東芝のダイナブックの新製品向けにアプリケーションを開発していた時、テスト用マシンとして東芝の府中工場から私たちのオフィスに送られてきた「新製品」を見て、腰を抜かすくらいびっくりしました。

なんと筐体がすべてベニヤ板だったのです。そこにMPU、メモリー、電源装置、冷却ファンなどがビスでとめてあり、デスクトップ用のキーボードがついていました。もちろん液晶のディスプレイもベニヤ板に貼り付けてあり、とても「マシン」と呼べる代物ではありませんでしたが、これがKAIにとってパソコンを、子どものころ遊んだラジオの組み立てキットと同じ自分の身体レベルで理解することができるようになる、思いもよらぬ貴重な体験となったのです。

先に引用した記事の、日本の「ものづくり」を支えてきた技術者たちも、繰り返しこのベニヤ板のダイナブックの試作を通して、新しい技術を自分たちの技術としてものにしていったに違いありません。すなわち技術の「逆進」とは、技術をより身体に近づける活動に他ならないと言うことであります。

しかしこの「逆進」がうまくいかなくなってきた。

 そしてこの「第三の科学革命」が起きた後でも、日本は産業革命時に「機械」から「道具」に逆流の道を作ったように、「システム」から「機械」へという逆の流れをつくった。機械化されても「道具」は残ったように、システム化されても「機械」は残る。その一つが「機械」をベースにした製造技術であり、日本の製造業は製造技術に磨きをかけて80年代にかけて躍進した。日本は欧米が進む道をキャッチアップする中で、欧米が置き忘れたところを「逆進」によってカバーして、むしろ本家をしのいできた、ということだろう。

 しかし、この「逆進モデル」が通用しにくくなったところに、今の日本の製造業が置かれている難しさがある。「第三の科学革命」がさらに進展し、システムがソフトウエアによって主導されるにつれ、システムから機械への逆進の道は細くなりつつあるという。「理由のひとつは、ソフトウエアによって機械の制御が速く正確に巧妙になり、熟練した技能に置き換わりつつあるからであり、もうひとつはソフトウエアが完全な普遍性をもっているからである」(本書p.188)と著者の木村氏は説く。
「逆進」する日本

この「逆進」がうまく機能しなくなった理由も簡単です。ソフトウェアと言う技術の「逆進」とは、技術を身体性に近づけることを通り越して、身体性そのもの、すなわち身体化を意味しているからであり、身辺にあるモノを通して理解することは、もはや原理的に不可能になってしまったからです。

言わば、モノの技術の「逆進」が身体性といかに近づくかと言う距離空間問題であるのに対して、ソフトウェア技術の「逆進」は、過去の思考体験と言う身体内部における時間空間への「逆行」と言えるわけです。

で、肝心のTwitter。Twitterについて、以前ここで何度か紹介した(ゲーム業界の沈滞を打ち破る方法ネット社会をよりリアリティのあるものに(その2))松村太郎さんがこんなことを書いている。

Twitterで生活の何が変わったか?

 ライフスタイルセッションの最初のテーマでしたが、僕は生活の様々な可視化という意味合いでTwitter Codeを紹介しました。海外のサービスなどで自動的に作ってくれたり、もっと凝ったモノが作れるそうですが、ひとまず自作のものをお見せしました。

 ヒマナイヌのカワイさんが真っ先に「ライフスライスだ!」とおっしゃっていた通り、自分の情報発信がBlogや日記のおおよそ1日単位から分単位まで短縮されたメディアがTwitter。だからこそ、自分の生活が文字や写真、あるいは動画で可視化されるというか、アーカイブとして記録され、後で振り返ることが出来るようになっている。
Time, Place, and Social Network - 行動が情報を変える

このTwitterによって分単位の過去が可視化できるのは、もちろんソフトウェア技術による身体の「逆行」効果なのですが、この本質はもっと別のところにあります。

それは、メールと比較することでよくわかることですが、メールの場合、公開の有無を問わず過去のメールを見ることとそのメールを書く人物の思考過程あるいは感情の変遷を知ることとは、ほぼ同義の行為と考えられます。

しかし、Twitterではそうはならない。いくら時系列に「つぶやき」を並べてみても、これが本人が行う主体的な思考過程とはならないことは、誰が考えても明らかなことです。むしろ、記録され伝播される「つぶやき」の集合とは、解体された身体と言う「個」の象徴以外のなにものでもないのです。

この解体された「個」が、身体を超えて機能したのが、先日の首都圏を襲った台風による交通機関の「つぶやき」情報。この事例こそ、「つぶやき」とは身体が解体されることではじめて機能するものであることが、端的に示されているのです。もちろんそこには、「個」はすでにあとかたもなく存在することはありません。

ただ、KAIは、これが無性に気持ちが悪い。自己の過去と言う身体が無意味に解体され、細分化されていくことに、どうしても耐えられない。まともな人間にとって、自己の存立基盤となる「身体」は、たった一つである必要があるのです。

だとすれば、唯一の可能性は、「つぶやく」者たちには「スライス」可能なもう一つの身体があるとしか考えられません。これはまさにネット空間における、2チャンの「匿名」に継ぐ第3の自己、「実名」と「匿名」両方の性質を兼ね備えた、言わば「量子化した自己」であります。

なるほど、Twitterで何が起きているのか。それは身体の量子化と言う、凄まじい変化です。人は、果たしてこの環境にいかなる適応をし生存していくのでしょうか。他人事ながらまことに興味深い問題であります。 KAI