期限の力

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鳩山首相の期限を切った日ロ交渉に、櫻井よしこがかみついている。

 発足以来、新機軸を打ち出し続ける鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする。
(中略)
 まず、総選挙で大勝して以降、鳩山氏が披瀝(ひれき)した北方領土問題に関する発言をたどってみる。

 選挙直後の8月31日未明の記者会見で、氏は「祖父一郎がロシアとの間で共同宣言を樹立した」「私も同じように、ロシアの、例えば北方領土問題の解決などに力を入れて参りたい」と述べた。

 9月17日、ロシアのメドベージェフ大統領との電話協議後、領土問題について「できれば半年で国民の皆さんの期待に応えたい」と述べた(「日経ネット」)。
(中略)
 熱意と意欲は大いに買おう。しかし、祖父一郎氏の「功績」や56年の日ソ共同宣言の厳密な分析なしに、「半年間で」、あるいは「われわれの世代で」と、領土交渉の期限を切るのは外交の下策である。期限を切ることは、交渉相手を不必要に有利にし、自らの立場を弱めるからだ。
【櫻井よしこ 鳩山首相に申す】国益のための領土交渉 (1/3ページ)

期限の力と言うものを理解しない人が、この話を読んでも、何が問題なのか理解できないでしょう。

期限の力とは、すなわち期限を守る者と期限を守らせる者との力関係を意味します。

人対人、国対国。どちらがこの力を行使するか。当然期限を守らせる方が力を行使できるのは、明白です。

例えば上司が部下に期限を切ることはあっても、通常業務において部下が上司に期限を切ることはありえない。組織内部の話ではなくても、他人に期限を切ることができるのは、それができる立場にあるからであって、対等な人間関係と言う互いの認識の中では、互いがこの力を行使できないことは明らかです。

もし、この関係性において、自らに期限を課すとすればこれはいかなる意味を持つのか。

それは、自らが意図的に、自らの立場を力を行使される側に置くことに他なりません。政権公約で、国民との力関係を前提とするのとは、まるで意味が違います。

実はこれは、ここで何度か議論してきた「レトリック問題」そのものであります。

これと同様の問題が、件の日本の過去に対する「自虐史観」と、日本の将来に対する「悲観論」です。前者は、日本の過去を貶め、後者は、日本の未来を貶める。そもそも、こんな「自虐史観」も「悲観論」も、ほんの一部の日本人とメディアが扇動しているだけのこと。同様に、日本人が「水平的」と言う「ウチダ仮説」も、これもまたメディア主導の自虐的レトリックの一つに過ぎません。

このレトリックにかかれば、米国に対する日本も、過去の日本も、未来の日本も、彼らにとってはたちまちすべてが、自分たちの主張の正当性の根拠と化します。しかもウチダ先生も書くように、日本人読者はこのレトリックに馴染みやすい(つまり簡単に引っ掛かる)。

これがなぜかと言うと、日本語独特の叙述的思考方法にあると、KAIは考えています。

語順の制約を受けない日本語には、過去も未来もその区別はありません。すべては絵巻物の世界として、今の中に空間的に配置されます。この意味では確かに日本人は「水平的」です。対する漢文や英文の世界では、語順と言う時間的配置こそ、その意味の根幹を成す。まさに思考のレトリックとしての、言語のその特性があるのです。

と言うことで、ことの本質がこの「レトリック」にあると考えると、すべてが納得できます。レトリックとしての自虐史観であり悲観論であり、オバマの演説に引き換えだと言うことです。しかもこのレトリックは、これは随分話が飛躍しますが、日本語の謙譲語と同じ構造になっています。

ただ違うのが自分自身が謙るのではなく、微妙に自分の所属しない、日本の過去や未来、はたまた現在の自分以外の日本を謙らせる。自分はしっかり安全圏におく。まことに姑息なレトリックであります。
レトリックとしての自虐と悲観

このレトリックは、実にエネルギー効率がいい。なにせ力関係における相手を最初から排除できる。最初から「私が悪うございます」と言えばいいのですから。

しかしこれは、国対国ではすまされない。この人たちに、これが国益を著しく損なうことになるとの認識は微塵もありません。北朝鮮の狡猾さは、あらゆる国際社会から与えられた期限を反故にすることによって、この期限すなわち力関係自体を無力化する試みとみなすべきであります。

2020年までの温室効果ガス25%削減目標と言い、鳩山の身体にはアプリオリにこのレトリックが染み付いているようです。

しかし、鳩山は「首相」。日本の代表者ですから、決して「安全圏」にはないはず。と思いきや、最初から「宇宙人」でした。もはや何をかいわんやであります。 KAI