国家の成長を個体の成長と同じとする大きな間違い

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今や日本は成熟社会に突入し、あとは人口は落ちるところまで落ちるのが当たり前、と言う論がある。

果たして成熟社会であるのかどうか、はなはだ疑問であるけれど、これ以上の疑問は、社会が成熟すると、人口が減少に転ずるものなのか。これを人の一生と同じとして、成熟とは老化であり、人口を体重に例えてそれが減少するものであると言うらしい。

もしこの例えが正しいとするなら、国家には寿命があり、国家はやがて自然消滅することになるけれど、そんなことは近代国家においていまだ起こったためしはない。

そもそも、社会の成熟とは、なにをもって成熟とするか。これを考える上で一番重要なことは、そのそもそもに戻って、社会とは何かである。今回学問的な定義はどうでもよくて、単に百万、千万人レベルで子孫を継続的に残すことができる人間の集団とすると、原理的にこの社会には、寿命はない。

寿命がないのであるからして、通常の人の成長とその老化に至るプロセスと、人間社会との間の類似性に根拠がないのはもちろんのこと、社会の成熟と言う概念自体、寿命がないのであるからして、これまた原理的に無意味なものとしか言いようがない。もし成熟があったとしても、ではそれ以後、ポスト成熟が永遠に継続するなどと言うのは、「成熟」としたこと自体の誤りと言わざるを得ません。

すなわちこれは、「成長」と「成熟」と言うキーワードが、その本来の意味を逸脱して、きわめて左翼的、イデオロギッシュに利用されているだけです。

ここで話は思い切り飛躍しますが、そもそもの共産主義者たちが、はたして社会の「すべての」人たちの幸せなど、決して受け入れてはいないのです。

マルクスが「疎外された労働」という言葉で言おうとしていたのは、こういう現実である。
「労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分の向こうがわにつくりだす疎遠な対象的世界がそれだけ強大になり、彼自身つまり彼の内的世界はいっそう貧しくなり、彼に属するものがいっそう乏しくなる」(『経哲草稿』、310頁)というのは単なるレトリックではない。
先ほどの婦人服工場の少女が死ぬまで働かされたのは、「外国から迎え入れたばかりのイギリス皇太子妃のもとで催される舞踏会のために、貴婦人たちの衣装を魔法使いさながらに瞬時のうちに仕立てあげなければならなかった」からである。
痩せこけた少女たちが詰め込まれた不衛生きわまりない縫製工場で作られた生産物がそのまま宮廷の舞踏会で貴婦人たちを飾ったのである。
その現実を想像した上で次のようなマルクスの言葉は読まれなければならない。
マルクスを読む

確かに、この記述は真実に違いありません。しかし、真実であればあるほど、コミュニストからすれば、労働者を隷属させる人間集団、すなわち自分達とは思想も価値観も異にする「悪魔」の経営者は、社会から排除される以外には、共存の道はありません。

これが、実は「成熟」論と、同根であると言うのが、えらい前置きが長い今回の結論なのであります。

え?話がまるでわからない?

当然です。確かにいまの社会、ウチダ先生の記述にあるような悲惨な労働者はいないかもしれない。しかし成熟とは程遠い、成熟社会から取り残された人々がそこかしこにいる。むしろ社会の大半でさえある。その彼らこそ、成長偏重社会の犠牲者であり、すなわち「成熟」社会における本来の「正当」なる市民に他ならないと言うわけです。

実現できなかった共産主義社会。彼らは、これを平然と「成熟」社会に置き換える。「成熟」こそ理想であるわけです。

はてさて、一体誰がこれに同意できるでしょうか。

世界中を見渡せば、日本の、日比谷公園に集まった人たちの言う惨状など、高が知れている。戦禍にまみえるわけでもなく、餓死の恐怖もない、すでに社会は「成熟」していると唱えるこの国で、彼らの主張するこれ以上の「成熟」とは、一体いかなるものであるのでしょう。

この矛盾が、結果としての「成熟」論からくることは、考えるまでもなく明らかです。悪魔の「経営者」を排除するためだけの、「成長」の否定、すなわち「成熟」論にこそ、この矛盾の根源があります。

すなわち、私たちが是とするべきは、結果としての「成熟」ではなく、プロセスとしての「成長」以外、ないのであります。 KAI