それは「ばれない」と思う人が、ウソをつくからである。
福岡のひき逃げ警官といい、例の逃亡タレントといい、「ばれない」と思うのは、頭が悪いからである。しかしこれは、遺伝的に頭が悪いわけではない。遺伝ではなく、これは環境によるもの。
つまり、彼らや彼女らのいる環境では、ウソが「ばれる」ことがない。少なくとも表面上は、「ばれない」。だから「ばれる」ことがないと思って、ウソをつく。
いったいこのウソが「ばれない」世界とは、何か。それは、いってみれば負の「安心社会」。閉鎖的、閉じた社会であって、この中に住み続ける限り、この社会の住民にとってウソの「ばれる」心配のない社会。もちろん当の本人にとって、自分がこの閉じた社会の中にいる自覚は、もとよりあるわけではないのであります。
しかしこれが、開かれた社会では、そうはいかない。自分のいる閉じた社会が、いつの間にか開かれた社会に晒されていることに気づかないまま、ウソをつく。
どこかの女性党首のようにウソが「ばれない」と思い込んでいる人は、こわいもんなし。もちろんこれは、一部メディア村の住民も例外ではない。
ところが、いまやこれをインターネットが、ことごとく閉じた社会に風穴を開け始めた。
ここで重要なことは、インターネット自体に最初から「開かれた社会」があるのではなく、インターネットを介して「開かれた社会」が作られていく、あるいは「閉じた社会」が「開かれた社会」へと変化していくのです。
すなわち、事件となった警察や芸能社会だけでなく、政治もメディアも、ありとあらゆる今までの「閉じた社会」が、「開かれた社会」へと変化を余儀なくされている。そう言うことであります。
「開かれた社会」とは、「信頼社会」。この「信頼社会」の歩き方、生き方は、つい先日の「信頼社会的週末テニス」のエントリーでも取り上げたばかり。
「信頼」に足る「人間性」を磨くしか、これからの社会をウソをつかずにまともに生きる方法は、ないのであります。 KAI
コメント