恐らく社会学的に、この「日本語」が問題となる時代には、その社会情勢との関連において、なんらかの所見を見出せるはずと思うけれど、それはひとまず横において、いま確かに、日本語論が面白い。
ついこの間までの、「日本語が亡びるとき」。タイトルとは裏腹に、日本語の存亡の危機を訴える内容に、梅田氏やウチダ先生など肯定的コメントが多数寄せられた。
しかし、KAI的には、これらがまったく「日本語論」をなしていないと思っていままでコメントしなかったけれど、やっとまともな日本語論が出てきたのかも(すみませんまだ読んでいないので断定できません^^;)。
認知言語学では、意味から独立した統語論を否定し、文をメタファーの関係としてとらえる。ここでもっとも基本的なのは、外的な世界を概念化する過程であり、文法はその概念=メタファーの関係をあらわす形式にすぎない。そうした形式のルールは記号論理学として完成されており、そこには主語という概念は存在しない。たとえば「犬が走る」という文はf(x)のような関数(述語)として表現され、その複合が命題になる。多くの文は複数の述語の複合した命題であり、その論理的な関係は集合の包含関係に置き換えられる。
(日本語は論理的である)
つまり、思考は並列であり、言語は直列です。並列問題は、原理的に直列問題として解決できない。要するに、日本語存亡論者のように言語を単なるコミュニケーションの道具と考えている限り、この文章にあるような日本語の「価値」がどこにあるかなど、言語本来の役割を理解することはできないのであります。
とうのウチダ先生でさえ、こんなことを書いている。
たぶん、創造性ということについて微妙な違和感を覚えるからである。
私の場合、「創造的」というのは、ほとんど「口から出任せ」というのに等しいんだけど。
その場合に、ある言葉がふと口を衝いて出て、それがどういうふうに転がって、どういうふうに収まるのか、予見できぬままに言葉が繋がり、やがて「そんな話になるとは思わなかった」ことを言い始める。
しゃべった本人が「へえ、私はそんなことを言いたかったのか」と事後的に知る、というかたちで「新しいアイディア」は生まれる。
私の場合は、とにかく、そうである。
問題は、このようなデタラメな言語運用は母語についてしかできない、ということである。
それと「同じこと」を私は外国語では行うことができない。
(英語で合気道)
すなわち言語論とは、思考の問題であって、コミュニケーションとしての道具論ではまったくない。ましてや、英語か日本語か、道具の優位性など、なんら言語の「価値」とは異なる次元の問題であることは、少し頭を働かせれば簡単に理解できる話であります。
日本語が、あと一千年、いや二千年、三千年、日本国に住む日本人がいる限り、生き残っていくことに、何の疑義があると言うのでしょう。国家の消滅の前に言語の消滅など、あり得るわけがないではありませんか。
そう言う意味で、憂うべきは日本語ではなく、日本国そのものであり、日本国の歴史の継承以外のなにものでもありません。
反日、自虐史観教育の「大罪」に、必ず神の鉄槌がくだることでしょう。 KAI
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