今朝きた新聞の折り込みチラシに、ドキリとした。
二つの縦に並んだ耳の写真がある。上の耳には補聴器が詰まっているけれど、下の耳にはそれが見えない。説明を読むと、耳穴の奥に入っていて、耳たぶ裏の本体と細いコードで繋がっているらしい。確かによく見ると透明のコードが見えるけれど、まったく目立たなくていい。
欲しい。
実はKAIは、難聴ぎみ。「ぎみ」というのは、健康診断の聴力テストで聴かされる波長の音がまったく聞こえない。それで「難聴」と診断書には記載されているのだけれど、耳鼻科の医者と話しても、きみは僕(医者)の言っていることが聴こえているから、難聴じゃないよと言う。
しかし、人の話し声が聴きづらいのは事実。
欲しいと思って、チラシの裏側を見ると、権之助坂のお店で診断の上購入できるとある。
めったなことではチラシなんか、目もくれない人間の目に、見事にはまったこの広告は、なかなかするどい。補聴器をつけるのはいいけれど、いかにも老人といった感じでちょっとなと言う、潜在意識に見事に訴えかけているのです。
といいながら、ここでしばし踏みとどまる。
KAIはあと50年(近く^^;)は生きるつもりですので、もし今ここで補聴器を着けてしまったら、これから50年、補聴器に依存した生活からぬけられなくなってしまう。まだメガネならまだしも、補聴器は電池がいる。たびたびではないにしろ、この先いったい何個電池を取り替えることになるのか。
この「依存症」の怖さを、つい最近体験したばかりであります。8年前から使っているソニーのカーナビ。これがうんともすんとも反応しなくなったのが先々週。先週修理のために取り外して以来、カーナビが使えない。なんともこの不自由なこと。
まったく意識していないうちに、カーナビ依存症に首までどっぷりつかっている自分に、激しく驚愕したのであります。
昔なら知らない土地に出かけるときは、事前に必ず道路地図で下調べして、地図のコピーを持参して道順と現地の場所を確かめていたものが、今はそうではない。行き先の住所さえあれば、カーナビにセットしてお仕舞い。もちろん事前にかかる時間は、カーナビでなくても地図サイトの経路検索でできるので、何時に出発すればいいかも考えなくてもいい。
今は、カーナビが使えなくても、地図サイトで簡単に住所検索も経路検索もできるから、昔に較べれば格段に便利になった。しかしカーナビがないことで何が不便かといえば、見知らぬ土地でいま自分がどこを走っているのか、これが皆目わからなくなった。
カーナビがない時代は、このカーナビの役割は、自分の「頭」がやっていた。事前に調べた「頭」の中の地図の上を走っていく。目印の交差点をいちいち確認しながら、「頭」の中の車の位置が移動していったのです。
久しぶりに、この「頭」の中のカーナビを取り出して、車を運転するのは、とても新鮮。しばらくはとまどうけれど、それでも昔取った杵柄。昔のある意味の「緊張感」が戻ってきた。
やっぱり人間は、この「緊張感」を忘れてはいけない。
もちろん補聴器がなくてはまったく聴こえない人は、こんなことはいってられない。それでもまだ少しでも聴こえるうちは、補聴器に頼らない、聴くことの「緊張感」を持ち続けようと、喉から手ならぬ耳から出かけた手を引っ込める言い訳を、必死で考えるKAIであります。 KAI
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